与えられる前に与える、ということ。

■八年前のちょうど今ごろ、私たちは「ぷらっとほーむ」を立ち上げ、フリースペース開所に向けた準備に追われていた。当時は、若者支援と言えばイコール「不登校・ひきこもり支援」というのが常識で、「不登校」「ひきこもり」などのカテゴリーを用いず、「それを求める人なら誰にでも開かれた場をつくる」というコンセプトのもとで実践されているような「居場所づくり」はまだ私たちの他には存在しなかったし、それを言ってもほとんど理解してもらえなかった。
■あれからずいぶん時間がたち、さまざまな方がたのご支援やご協力もいただきながら、私たちは、私たちの確信――若者たちから「居場所」を奪うな!――を、この地域の中で訴え続けてきた。おかげさまで現在では、それらが地域の心ある人びとに聞き届けられ、温かい支持をいただけたり、さらには同じ方法を採用していただけたりと、さまざまな広がりをもって、地域に根づきつつある。もはや「居場所」など自明で、改めて訴えるまでもないもののように思える。
■だが待て。世界は常に私たちの想像力を凌駕する。先日、「居場所づくり」に人を勧誘するに際し、それについて説明する場面があった。「承認」や「仲間」など、安定的に生きていくうえで誰もが必要とする価値を与えてくれるのが「居場所」であり、私たち若い世代はそれが剥奪されやすい社会に生きている。だからこそ、地域のあちこちにさまざまな「居場所」をつくりだしていかなければならない。そのために、いっしょに活動しませんか、とお誘いした。
■するとそこにいたある人が一言。「その仕事って(お金を)いくらぐらいもらえるんですか」。当然ながら、金銭の見返りとして与えられる何かを「承認」や「仲間」とは呼ばない。するとその人、「じゃあ興味ないですね。私には必要ないですし」。絶句した。なるほど、確かにお金は必要だ。生計を立てていけなければ、どんなに立派な取り組みだって持続不可能である。でも、見返りが保障されていなければ動かないというのは、あまりに貧しいふるまいではないだろうか。
■「豊かさ/貧しさ」とは、実際にもっているお金の多寡ではない。経済的には豊かでも貧乏くさい人はいるし、その逆も然りである。両者の差は、彼(女)が、与えられる前に与えることができる人であるかどうかにある。報酬の約束がなければ動かないというのは、その観点からは限りなく貧しい。それが悪いとは言わない。しかし私たちはそれをひどく醜いと捉える。そうした感性の居場所を市民社会という。私たちはまだ、市民社会をもつことができていない。*1

*1:『ぷらっとほーむ通信』096号(2011年4月)