私たちが怠ってきたこと。

昨年に続き、二度目のNPOフォーラム。外国人参加者とのディスカッションが刺激的で、同じものを期待して参加を希望した。私が所属したのは「資金調達/団体運営」をテーマとするディスカッション・グループである。実はちょっとしたハプニングがあった。
今回、同じグループの外国人メンバーの方々は、それぞれの国における全国規模NPOの運営者であったり、NPOに関する専門研究者であったりで、相手に対してどこか萎縮してしまっていた自分がいた。そうした人たちに向けて地方の零細NPO風情が言えることなど何もないと、ただただ相手の説明に聞き入り、質問するだけで精一杯になっていた。圧倒されていたのだ。おそらくは、日本人参加者の他の人びとも同じような状態だったのだろう。気がつけば、私のグループは、外国人参加者を「教師」とし日本人参加者を「生徒」とした、一方的な「講義」になってしまっていた。
議論を期待して参加していたであろう外国人参加者の方々が、そうした「講義」に退屈したのも当然かと思う。「講義」から彼らが得られることは何もない。得られるものがない場所に拘束されねばならない理由もない。かくして、はじめに事務局が想定したディスカッション予定はもろくも破綻し、「講義」を終えて早々と去ることにした外国人参加者と、「宿題」を課された居残り組みの日本人参加者へと、我がグループは空中分解するにいたったのだった。とはいえ、日本人参加者だけが残されたことで、NPOを取り巻く特殊日本的な状況とは何か――端的に言うと「市民社会の不在」――について、集中的に論点を煮詰めることができたわけで、そうした点で収穫は決して少なくはなかったのだが。
さて、このことから我々は何を学ばなければならないのだろうか。彼(女)らが途中で席を立ったということは、彼(女)らが日本人参加者とのやりとりに価値を見出さなかったということだ。仕方ない、NPO運営における彼我の実力に差がありすぎる。一時はそんなふうに思わなくもなかったが、しかし果たして本当にそうなのか。
私が言いたいのはこういうことだ。私たちと彼(女)らは歴史も文化もまるで異なる異文化どうしなのだから、単純に比較してどちらが進んでいる/遅れている等とは言えまい。日本でもしNPOが未発達なのであれば、それを補う別の何かが発達しているはずであるし、欧米でNPOが発達しているのであれば、そのぶん他の何かが退化しているはずだ。とすれば、自らの置かれた状況を「遅れ」と恥じて黙ることでも、文脈や背景を無視して「先進事例」をただ輸入することでもなく、現在の状況を創り出している日本固有の要因が何であるのか等について丁寧に分析し、それをわかりやすく提示することこそが求められていたということになる。私たちが怠ったのは、まさにその作業なのだ。
今回のNPOフォーラムのサブタイトルには「海外NPOの先進事例に学ぶ」とある。しかしながら上記をふまえるなら、真に学ばれるべきは、「海外の先進事例」ではなく、彼らを「先進事例」たらしめている(歴史的・社会的)条件のほうであり、それらを鏡としたときに見える私たち自身の側の(歴史的・社会的)条件のほうなのではないか。ある場所で成功したモデルを、前提の異なる別の場所に移植してそこに根づかせるためには、両者の前提の違いというものをしっかりと理解した上での「移植手術」が必要である。「先進事例」をうまく取り入れ活かすためにこそ、私たちはまず「自分たち自身の社会」についてよく知らなければならない。
私たちに必要なのは経営学や経済学ではない。必要なのは「社会学」なのである。