山内志朗 『<つまずき>のなかの哲学』

「つまずき」のなかの哲学 (NHKブックス)

「つまずき」のなかの哲学 (NHKブックス)

例えばあなたが人生につまずき、自分はいったい何者でどこへ向かえばよいのかとか、何が自分にとっての幸福なのかとか、そんな「謎」に出会ってしまったとしよう。そんなとき、ふと目にし、手にとってしまいがちなのが人生論(を含む哲学)である。
ところが、巷にあふれる人生論(を含む哲学)がこの「謎」に対して期待どおりの取り組みを示してくれることは滅多にない。「悩んでばかりいないで元気出せよ」と励まされるか、「人生とは「人生とは何か」を問い続ける営みだ」とはぐらかされるか、「それは偽の問題だから、真偽を見破れるだけの論理的思考を鍛えろよ」とバカにされるか、大抵はそのどれかだ。期待した挙句に裏切られるのだから、人生論が嫌いな人も少なくないだろう。
本書の著者もそうした「人生論が大嫌い」な人びとの一人。そんな著者がなぜ人生論か。理由はこうだ。既存の人生論に辟易しきった人間だからこそ人生論嫌いな人びとにも届くような人生論を書くことができるだろう。ではなぜ、そこまでして人生論にこだわらなければならないのか。
著者は、人生論が取り組む「謎」が私たちの人生にとって重要な役割を果たしている点に着目する。人生の「つまずき」という答えの出ない「謎」は、まさにその「答えが出ない」という点で、私たちの生に希望を作りだす装置として機能している。「謎」は、答えのある問題とは違い、そこに新しい何かを付加しなければ決して解くことができない。そこで付加される「新しい何か」こそが希望なのである。
ところで、「謎」は他者、「つまずき」は他者との遭遇と読み替え可能である。西川町の山村出身という著者が、山形市を経て、東京での都市生活へ進んでいったというその過程は、見知らぬ他者との出会いの連続であったはずだ。そう考えると、私たち地方出身者は、都会出身者以上に、他者=「謎」につまずく機会(哲学の機会)に恵まれていることになる。その意味で本書は、地方からの哲学入門なのである。*1

*1:山形新聞』2007年3月4日 掲載