「支援」はいかにして構成されるのか。

2人の人間が向かい合って座っている。ひとりは年配の女性、もうひとりは少女である。2人は家族ではないし、親戚でもない。年配の女性がしきりに少女に話しかけ、少女がそれに耳を傾ける。ときおり少女の笑い声が響く。さてこれは何の場面であろうか。これは、あるボランティア・グループの支援活動の一場面である。では、ボランティアとして支援している側はどちらで、ボランティアにより支援されている側はどちらであろうか。

2つの解釈が可能である。一つ目は、年配の女性が無口な少女に話しかけることでコミュニケーションや人間関係づくりの支援をしているというもの。二つ目の解釈は、少女が年配の女性の話をひたすら聴くことで話し手の孤独をいやすカウンセリング的な支援をしているというもの。前者は、年配の女性によるこの場面の解釈である。彼女は少女に「話しかけてあげた」と意識している。後者は、少女によるこの場面の解釈である。彼女は年配の女性に対し「話を聴いてあげた」と意識している。支援されている側(=弱者)はどちらだろうか。

年配の女性と少女の間でなされたコミュニケーションは、それが相互行為であるがゆえに、主観的には、どちらの側においても、結果的に「そのやりとりが相手に対する支援になる」ということがありうる。しかしながら、客観的には、この2人の関係性だけで「支援する側/される側」が決まるということはない。どちらが客観的かつ社会的に「支援する側」であり、「支援される側」であるかというのは、外部から別の基準を持ち込まなければ、決めることはできないのである。

これは、筆者が運営していた不登校支援ボランティア・グループでの一場面である。少女は「不登校生徒」であり、年配の女性は「ボランティア・スタッフ」である。これを次のように記述することができる。少女を「支援される側」、年配女性を「支援する側」に割り振り、その役割や領域を超え出ることがないようにするための外部基準を維持管理している第三者というのが、ボランティア・グループなのだということだ。