社会学的ツッコミのためのレッスン。

■W先生の社会学ゼミ。5コマ目。16:20−17:50。参加者は、学部3年の学生さん7名(女4/男3)と先生とわたし。ゼミ論(50枚)のための章立て案について、2名の学生さんが構想発表を行い、それに関してゼミ生がツッコミを入れ、先生がそれらをまとめ、今後のすすめかた等に関するアドバイスを行う――そして最後にゲストであるわたしにもコメントが求められる――という手順で進行。ゼミ論の締切は来年一月なので、実質3ヶ月しかないことになる。完成させた後2月に、ゼミ論発表会を他大学の社会学ゼミと合同で開催予定とのこと。司会はW先生。学生さんの研究テーマは、「競馬」と「黒川能」。時間通りにゼミは終了。次週よりゼミ論の具体的な執筆に向けた個人指導(1人につき30分程度)に入るとのこと。
■以下感想。4年ゼミへの参加が2回、3年ゼミへの参加が2回で、合計4回目のゼミ参加となり、ようやくちょっとずつWゼミの日常風景に慣れ始めてきた実感があり。まだまだそう思うのは早すぎなのだろうが、今まで緊張やら何やらで見えなかったさまざまなものたちが視野に入り始めてきたこともまた確かなわけで。それは何かというと、ゼミの中での自分の役割みたいなもの。社会学ゼミの参与観察を試みようと思って参加させてもらっているのだが、そういう「観察者としての自分」の立ち位置(という自己認識)とは裏腹に、W先生やゼミ生の人たちが外部者であるわたしに期待する「ツッコミ役」としての立ち位置というものもどうやら存在していたらしい。しかも、そうした「ツッコミ役」という重要な役割を、どうも自分はまるで果たせていないなと痛感してしまったわけで。激しくへこむ。
社会学的なツッコミに求められているのはいったいどのような役割なのか。思うにそれは、ベタな視点なり解釈なりに対し、その死角をついた別の視点や文脈をぶつけること。ベタな社会像が有する偽の安定に揺れを与え、その瓦解を手助けすること。それによって、ベタな社会像を徹底的に解体し、その瓦礫の中からよりましな社会像を再構築していく過程を側面支援すること。狭隘化しがちな視野やら語彙やらの内部に、異なる文脈を挿入することで、既存の社会像をよりノイジーな=多声的なものにすること。そういういろいろが、個々の学生さんのネタ振りに対し、きちんと全うできていたかというと果てしなく心もとない。学生さんの視界の範囲を前提にして、その箱庭の中で「重箱の隅をつつく」程度のことしかできない自分。まだまだヌルい。がんがる。