「社会学」という去勢

■W先生の社会学ゼミ。5コマ目、16:20−17:50。今回は、学部3年ゼミに参加させていただく。参加した学生さんは全部で8名(男4/女4)。前回より「ゼミ論」――3年ゼミの最終課題だそうな。締切は来年1月28日とのこと――の構想報告を順番に実施しているとのこと。前回は2名の報告が終了。今回は、3名の構想報告。内容的には、学生さんたちがそれぞれのテーマに即して、具体的に「章立て」をしてみるところまで。司会はW先生。学生さんの報告後、不明な点や興味深い点などに関し、幾つか先生が質問。その後、ゲスト(私である)からのコメントを経て、最終的に先生の側から今後の作業や課題に関しての方向性や具体的な提案――次回までに取材対象者の候補をピックアップしてくること/インタビュー用の質問紙を作成してくること――等が示される。やはり予定通り、17:50ぴったりにゼミは終了。その後、学生さんの1人が差し入れしたやつはしをつまみつつ、しばし談笑。

■以下感想。先々週に参加させてもらった4年ゼミとはまた違った意味で、非常に興味深い。4年の学生さんたちとは異なり、こちらはまだ社会学的な前提(みたいなもの)がまだゼミ生の間に共有されていないような感じで、学生さんたちの議論や話題提供もまだまだ世間的な「常識」の語彙や範疇を脱し切れていないというのが正直な感想。それら「常識」の語彙や解釈に対し、先生の側でその都度「カウンターをあてていく」のがゼミの内実かと。「カウンターをあてる」とは、世間で流通している「ものの見えかた」に対し、それとは異なる視点から光をあててみることで、これまでとは別の見えかたがあるのだということを示唆すること。ベタな見えかたに、メタな視点を対置すること。絶対性から相対性へ。そうすることで、世界の思いがけぬ豊かさへと開かれゆく回路(へのきっかけ)をビルトインしてやること。ここで行われているのは、そうした意味における「社会学的な去勢」なのだと思う。

■終始なごやかなゼミの雰囲気に、つられてこちらも笑いがこぼれる。何より「萌え/萎え」とか「メイド喫茶」とかいった専門用語がごくごく普通に――居合わせた誰1人として「ひく」者がいない(たぶん)――交換される空間のなんと奇妙な、そして何より面白いことか。「えっ、それもありですか」とか「そんなことまで言っちゃうの」とか、脳内ではのけぞりっぱなしでしたよもう。自由な言語交換が促進される空間。そう考えると、ぷらほで自分たちが目指すものとも共通した何かがここには存在しているわけだが、じゃあ何が違うのかというと、こちらの社会学ゼミではメンバー間に共通して取り組むべき目標、すなわちゼミ論という課題があるという点。このあたりのしくみを、ぷらほの活動にもうまく取り入れられないか、模索してみたい。いずれにせよ、非常に楽しい時間でありました。来週は木曜が休みなので、翌日金曜の4年ゼミ。

■ゼミ終了後、W先生より、ボツ論文に関してあれこれ批評をいただく。ネタそれ自体に問題があるわけではなく、その提示のしかたに不十分な点があったのではないか、とのこと。とりわけ、構築主義やら言説分析やらナラティヴ・セラピーやらをほのめかす概念や方法や語彙が使用されてありながら、それらに関する説明や引用、参考文献の提示等が皆無なので、前提のない読者には問題意識を共有してもらえず、いたずらに抽象的で難解な印象ばかりを与えてしまったのではないかとも。先生の言葉を借りるなら「掲載には、学術的な正当性確保の戦略が必要」ということ。なるほどね。外部からは見えなかったさまざまなことがらが、少しずつ視野に入ってくる。自分の立ち位置がこれまでいた場所から少しずつズレはじめているということの、これは一つの証左なのだろうな。