「進路指導・評価を考える」

■第55次山形地区教育研究合同集会。分科会「進路指導・評価を考える」に運営推進委員兼報告者として参加。研究協力者として、山形県労働相談センター事務局長の佐藤完治氏をお招きする。参加者は(わたし以外は)教員のみで合計10名。レポートが、当日飛び込みも含めて4本。タイトルは以下の通り。

①「職場体験の実践」(蔵王第一中学校)
②「本校におけるインターンシップの現状と課題」(山形商業高校)
③「『産業社会と人間』の実践」(東海大山形高校)
④「フリースペースの「進路」支援」(ぷらっとほーむ)

■前半の①、②は、公立中学・高校の現場における「職場体験」や「インターンシップ」の現状とそこから浮かび上がってくるさまざまな課題についての報告。受け入れ先企業の発掘は完全に学校任せで、生徒を受け入れる側の企業に対しての支援や補償もない、というのが現状だとのこと。成功事例も幾つか語られたのだが、それらに共通するのは、受け入れ先企業の開拓や学校との連絡調整の業務を、学校外部の第三者――商工会議所など――が肩代わりしてくれているということ。今後「5日制」へ拡充していく流れの中で、中学・高校ともに参入校の増加が予想されるわけだが、であればなおさら、企業−学校間の連絡・調整機能を整備していかなければ、現場の混乱は必至。③は、私立高校での授業『産業社会と人間』における実践報告。④は、「学校−企業」という「社会的自立」への公式ルートから(不運にも)外れてしまった人たちが「進路」という問題に関していかなる状況に置かれることになるのか、またそうした人たちへの支援の現状がどのようなものであるのか、といったことに関する居場所からの実践報告。

■以下感想。とにかく気になったのが、「フリーター/ニート(=会社的ならざる存在)否定」とそれを「生徒の職業意識不足」に帰責する教員の中の人たちの前提。そこから「職場体験」や「インターンシップ」をめぐる語りは、基本的に「社会性(=会社的心性)に乏しい生徒たちへの社会的(=会社的)規律・意識の付与」を軸に組織されることになる。だとしたらそこで言われている「職業意識」の内実とは「会社とお前が対立する場合には、原則として会社が正しい。ゆえに対立を感知するお前のこころを変えよ」でしかないのではないか。研究協力者の「それは生徒の問題なのか、それとも社会の問題なのか」というメッセージ――労働相談の現場では、企業の側が若年労働者を法律や人権無視の状況下で働かせ、それに耐え切れずに脱落する若年の相談事例が急増中という。「最近の若者は」言説は、そうした人権侵害を見えなくする隠れ蓑として機能してはいないか――が果たしてどのように届いたのか。

■そもそも、参加者の人びとが「ニート」という(否定的ニュアンス込みの)語彙を自明のものとして語っているあたりが既に違和感。昨年の同じ会では「ニート」なんて言っても参加者のほとんど誰も知らない語彙だったのに。この一年で相当の流通力を獲得したわけだ。社会的実体としての「ニート」。まさに言説が現実を構成するということの典型事例。得意げに――あたかもその使用が「自らが社会派であること」の証明ででもあるかのように――こうした危険な語彙を用いたがる人たちは、たった数年前にはわたしたちの誰もそんな語彙で若年を「問題」視してはいなかったということ、その彼我の落差――たった数年で人間にそんな落差が果たして生じうるのか――について改めて考えてみるとよいと思う。

■「職業意識を育てるため」という「インターンシップ」の積極的推進の根拠に関して、実はもうひとつ非常に気になる論点がある。質疑応答の場面でも指摘したのだが、事例にあがった高校では「生徒のアルバイトは禁止」あるいは「許可制」であるとのこと。さて、生徒の人たちが自発的に労働を行う「アルバイト」は積極的/消極的に禁止される一方で、半ば強制的に参加させられる「インターンシップ」が積極的に推奨されるのはいったいどうしてなのか。「学業がおろそかになる生徒が多いから」とか「非行に走る生徒が出やすいから」との(常識的な)返答だったが、本音のところは「生徒に対する管理統制が困難になるから」ではないかと推測する。学校は巨大組織であるから、管理統制の側面も当然必要になってくるという論理はわかる。だがそのうえで、本気で職業意識や社会性なるものの成育を支援したいと望むのなら、「アルバイト」の有する教育的意義についても正当に考慮してみるべきではないかと思う。

■最後にひとつだけ。配布された資料の一部に、現場での指導の産物である「職業意識掘り起こしのためのワークシート」や「職場体験実習後の作文」などがあり、そこに生徒の実名が記載されたそのままの状態のものが含まれていたのだが、こういう使われかたをしていることを彼(女)は知っているのだろうか。もし知らないとすれば、個人情報保護(プライバシー権)という点において問題がある。いちおう外部に開かれた会なのだから、資料作成の段階で、それを書いた生徒本人が特定できてしまわないだけの配慮は最低限必要。大人気ない原則論=揚げ足取りと思われるかもしれないが、指導対象だからといって人権への配慮を怠っていいなんて話はない。生徒の人たちの人権のみならず、それは、教師/学校の側が自らの身を守るということでもあるわけで。もしこれが無意識の産物なのだとしたら、相当に無防備だと思う。