シンポジウム「ひきこもり・ニートの支援とは」

■10月15日(土)、山形インにて。不登校親の会山形県ネットワーク主催の「ひきこもり支援講演&シンポジウム」の第一部シンポジウム「ひきこもり・ニートの支援とは」を聞きにいく。パネリストは、佐藤えりさん(山形県若者就職支援センター庄内プラザ相談員)、藤田健さん(岩手県不登校を考える父母会事務局長)、秋田敦子さん(わたげ福祉会理事長)、伊藤正俊さん(体と心発達支援情報センター主宰)。コーディネーターが、白幡康則さん(不登校親の会山形県ネットワーク)。 
■居場所や相談窓口といった若年支援の現場での、長期にわたる実践経験をもとにした非常に力強い言葉たちの応酬。とりわけ秋田さんの「フリースペースわたげ」における支援実践とそれを表現するユニークな語彙群が相変わらずとても興味深かった。山形市で最初の居場所を立ち上げる際にいろいろアドバイスを下さったのもこの方で、現在自分が用いているストックフレーズのいくつか――「緩やかな刺激」とか「遅さという才能」とか――は明らかにこの方からの受け売りだったりする。とはいえ、違和感もまたあり。
■「親の会」が主催ということもあってか、若年支援――それが居場所であれ相談窓口であれ――にまつわる視点がすべて「親」の「子」に対するそれ一色で、そこが強烈に違和感。口を開けば、「親が子を理解」とか「家族が基本」とか「鍵を握る母/父」とか。「近代家族の三角形」を自明のものとする視点。システム論的家族療法にもつながる。その視点のもとで、居場所における関係性もまた「家族的であるべし」というふうに強調される。隠喩としての家族。
■そこで暗に語られているのは、自己救済/自己回復能力を欠いた、圧倒的に無力な存在としての若年=「弱い子ども」(とその裏面としての、救済能力を備えた「強い父/母」)のイメージである。ここにあるのは、パターナリズム(家父長主義)だ。「若年の、若年による、若年のための居場所」、つまり若年自身による自己救済空間の社会的創出を掲げる私たちとしては、全くもって看過しがたい視点ではある。「家族的なありかた」が居場所の全てでは決してない。*1

*1:その点に関連して言うなら、私が運営に関与している居場所「ぷらっとほーむ」には、そもそも「親の会」や「保護者会」なるものが存在しない。これは、私たちが「家族モデル」を採用していないことに起因していて、それでは何をモデルにした居場所なのかというと、それは「喫茶店」なのである。「ぷらっとほーむ」のジャーゴンに居場所を「スナック」、スタッフを「ママ」にたとえる語りが存在するが、これもまた同団体が「家族モデル」ではなく「喫茶店モデル」を採用していることと親和的な事態をあらわしているといえよう。