おわりに

二〇〇一年四月、既存の「不登校親の会」から独立してその「居場所づくり」運動/活動をスタートさせた滝口克典は、失われた正統性を補完するために、さまざまなやりかたでこの正統性(あるいはその代替物)を調達しようと尽力する。
はじめに彼は、正統性を有する他者――「当事者」と「専門家」――の存在や言説を自らのメディアのなかに織り込むことで、この正統性を外部調達しようと試みる。だが、結局のところ「当事者」でも「専門家」でもない彼は、それら(やその類似物)を権威源泉とした運動/活動に限界を感知する。並行して彼は、他所のメディア上において密かに、正統性のありかを自らの実践(とその来歴)の内部にさぐり始める。正統性の内部調達の取り組みである。
やがてそこで「居場所の癒し」という安定的な足場を確保した彼は、二〇〇二年六月ごろを境に、その語りを軸に積極的な「居場所/居場所づくり」の定義行為に着手する。そこで産出されるのが「非当事者主義」という当事者ならざる彼の立ち位置を積極的に肯定する言説であり、「居場所の癒し」の内実や論理を積極的に展開した「居場所の効用」論である。そしてその「効用」をも徹底的に社会的意義と連関させて語ることで、彼は「居場所」を――「不登校・ひきこもり」との強い紐帯から解き放ち――「社会化」するに至るのである。
ここにいたり、滝口は「SORA」から離反し、到達した物語をより積極的に展開可能な場を求めて「新しい居場所」の設立へ向かうことになる。その際、彼は「多様な居場所の偏在」という、現状の正当化のための最後の物語を産出する。
以上、二〇〇一年一月から二〇〇三年三月までの「フリースペースSORA」時代の滝口の「言説=政治」の痕跡をトレースしてきた。冒頭でも述べた通り、新しい価値を社会的に創出し流通させていくことを目的とする市民運動/活動にとって、「言説=政治」への意識的な取り組みは死活的な重要性を有すると思われる。この重要性に注意を喚起するため、本稿では、かつて筆者が自らの運動/活動のなかで実践したことを、この「言説=政治」の一事例として記述してきた。とはいえ、それらは「言説=政治」の語り手の側を分析したにとどまる。「言説=政治」の効果を明らかにするためには、それらの受け手の側の変容をも記述する必要があり、これが今後の課題となろう。さらには、この「フリースペースSORA」の事例を端緒に――「居場所づくり」に限らず――さまざまな運動/活動を対象として、同様の事例を積み重ねていきたい。