定義行為のはじまり(続)

それまでの不安定な彷徨を経て、2002年の夏に滝口が辿り着いたのは、「居場所の癒し」物語によって「不登校の居場所づくり」運動/活動の正統性を確保するという語り口であり、立ち位置であった。そこでは、「当事者であること」が「不登校・ひきこもり当事者/経験者」という属性から「居場所」の利用者/活用者という属性へとひそかに移し変えられ、さらには「不登校でもひきこもりでもない自分のような者」こそが「居場所の癒し」物語の語り手としてむしろ正統性を有する、という運動/活動の正統化を志向する言説が紡ぎだされているのである。
そのようにして辿り着いた場所で、滝口はようやく「居場所」についての語りを開始する。『SORA模様』誌上での連載「フリースペースSORAとは何か」である。その第一回目には次のようにある。

フリースペースSORAの開設・運営に携わってきて1年がたった。身近にモデルも前例もなく、すべて手探りの試行錯誤の中で積み上げてきたのだが、これまで積み上げてきたものをこの辺りで一度、きちんと分析し批評し位置付けする必要性を感じてきた。今回よりその作業に取り組んでいきたいと思う。そもそも、フリースペースSORAとは何なのか。そしてそのフリースペース(フリースクール)を山形において開設するとは、どういうことなのか。*1

最後の部分に着目していただきたい。二つの水準の異なる問い――「フリースペースSORAとは何なのか。そしてそのフリースペースを山形において開設するとは、どういうことなのか」――があることに注意しておこう。言いかたをかえるなら、前者は「居場所とは何か」をめぐる問いかけであり、後者は「居場所づくりとは何か」をめぐる問いかけである。さらに言い換えるなら、自分たちが構築しているものは何なのかというのが前者で、それを構築している自分たちとは誰か、あるいはその自分たちの行為とは何かというのが後者である。だが、そのように二重の水準で開始された滝口の居場所/居場所づくり論は、先述の「居場所の癒し」物語の強力な磁場のもとで、ある偏りを伴いながら展開していくことになる。
ではその「居場所の癒し」物語の磁場とは何か。滝口はかつて次のように書いている。

日々の活動のなかで改めて感じていることがあります。それは、フリースペース(=役割期待から解放され自由に過ごすことができる居場所)は、なにも子どもたちだけに限らず、大人たちにとっても必要なのだということ。そこには貴重な「癒し」があると思われるためです。*2

そこでは、「癒し」というまさにその一点において、支援される側の不登校の子どもたちと支援する側のスタッフの体験の間に共通性があるのだ、という語り口が生成。だが、居場所の利用者とその運営者の同質性や対等性がそこで強調されればされるほど、そうはいっても、それでも歴然と存在する利用者と運営者の線引きはどう根拠づけられるのか、根拠づけられないとすればそもそもその線引きをどこで行えばよいのかという難問が逆説的に浮上してくることになる。とはいえ、SORAは「不登校の子ども」という支援対象/目的を有していたがためにこの難問をかろうじて回避(問いはその後ぷらっとほーむの居場所づくり運動/活動で回帰してくることになるのだが、それはまた後の話だ)。積み上げられていく言説は、「癒し」の内実を言語化する方向へ向かう。
滝口は言う。不登校の子どもたちも自分たちスタッフも、同じように「居場所」に癒されるのだ、と。では、そこで体験されている「居場所の癒し」とは何なのか。そこにはどのような仕掛けがあり、いかなる機能がそこでは充足されているのか。居場所の効果とは、いったい何であるのか。などといった、居場所の効用論が展開されていくのである。これは、先に述べた問いの二重の水準のうちの第一のもの、すなわち「居場所とは何か」の水準であり、その効用やそれを生み出す構造を抽出し、言語化していく作業に滝口ははまり込んでいくのである。
その言説編成に関しては、記述形式のレベルで、ある特徴が存在する。滝口の居場所論は、居場所の有する多様で多義的な機能群のうちのある部分を切り取ってきてそれを名指すところから始まるのだが、その名指しを、当時の社会的文脈から何らかの関連する価値を拾ってきてそれと居場所の該当箇所とを重ねあわせる、という形式――フリースペースの社会的意義――において遂行し、ひたすらそれを反復しているように読める。例えば次のように。

SORAでは、フリースペースという場にいる子どもたち1人1人の時間感覚やペースを最大限尊重する構えをとっている……こうした構えには、いったいどのような思想的背景があるのか。今回はそのあたりを記述することで、フリースペースの社会的意義というものについて考えてみたい。
子どもであれ大人であれ、現代のこの高度に資本主義化された社会に生きるぼくたちは、「生産的であれ!」とか「効率的であれ!」といった規範を無意識の内に身体化されるプロセスの内部にある。この規範を時間という観点から語りなおすと、「もっと早く!」ということになる。極論的な言い方になるが、学校も企業もこの「速さ」の肯定を前提として回っているシステムだと言えるだろう。
現代日本フリースクール/フリースペースは、一般的には、主に不登校児/生やひきこもり青年の居場所として理解されまた実践されているわけだが、速度という観点から見たときに、そこには切り離しがたい連関が存在している。不登校やひきこもりとは、学校や企業といった、他者により「速さ」を強制されるような場のそうした敷居の高さに違和を感じそれらの場を回避したり拒否したりしたケースだと言えるためだ。
そうやって他者により強要される類の「速さ」を拒絶した人たちにとって、敷居の低い場であろうとするなら、当然そこは、できうる限り「遅さ」が許される場、別の言い方をするなら、自らの速度を自分で決めてよい場であらねばなるまい。速度の自己決定権。フリースペースSORAが、子どもたち個々人のペースを尊重する根拠はまさにこの点にある。*3

あるいはこんなふうに。

SORAにやってきた誰しもが、最初は「やりたいこと」の空白にとまどう。しかし、その空白のなかだからこそ、他者に急かされることなく、ゆっくりじっくり考え試行錯誤しながら、自分の欲望や動機を確認できるのではないかと思う。この、それぞれの動機模索のプロセスを、SORAはとりわけ大事にしている。自分で選択するプロセスであるだけに(他人に指示/強要されるものではないだけに)、その試行錯誤はそれだけ自らの自信にもつながりうるであろうから。
そしてそうであるがゆえに、スタッフは子どもたちへの積極的な干渉や働きかけを禁欲している。あくまで、子どもたちのイニシアチヴを待って、それらを支援するわけだ。しかし、実はそれだけがフリースペースの動機調達法の全てではない。ちょっとだけ考えてみよう。人はいったい何によって動機づけられるか。これは何も「不登校」の「子どもたち」のみに限定される話ではない。我々大人にもそのまま適応可能だ。
金銭や身体的な欲求充足をのぞけば、人は「おもしろそうな人/もの」に動機づけられるのではないかと思う。何やら楽しそうに生きている人やそうした人々の場には、自然と関心が集まる。そこには模倣の動機がうまれるもの。「指導」するまでもない。SORAでもスタッフは(というか自分は)そうありたいと考えている。そう考えると、結局のところ、フリースペースにおいて子どもたちの動機を喚起するということはつまり、自分自身の生を豊かにそして楽しく生きるということそのものだ。誰かに何者かになってほしいと思うなら、まずは自分がそうなるしかないのだ。何より自分が楽しくそして自由に生きるということ、それが私たちの方法である。*4

このように、「遅さの肯定」や「指導の禁欲」など居場所において彼らが実践する価値を、資本主義批判や欲望の理論、こころの専門家批判などの社会的文脈を動員することで正当化しつつ、「居場所の意義/効用」を構築している。これは、「居場所の社会化」とでも呼ぶべき語り口の生成であり、それまで「不登校・ひきこもり」とセットにして語られがちであった「居場所」を、「不登校・引きこもり」の外部=社会的文脈とセットにして語ることで、従来の「居場所」言説と「不登校・ひきこもり」言説の密接なつながり――その端的な表れが「不登校居場所」なる表現――をゆるめるということを意味した。「不登校・ひきこもり」の内部へと独占的に帰属させられてきた「居場所」が、「不登校・ひきこもり」の外部へと解き放たれること、これが「居場所の社会化」なのである。
このような語り口が、『SORA模様』の居場所論連載のなかで、各回のテーマに沿って反復的に強化されていき、やがてそれは、フリースペースSORAが依ってたつ「不登校の子どもたちの居場所」という基本理念との間に根本的なズレを見出すことになる。運動/活動をいちばん外側で統合してきた物語の枠組としての「不登校の居場所」物語を破綻させることになる契機が、ここでは顔をのぞかせているのである。