『現代のエスプリ457 子どものいる場所』 

子どものいる場所  現代のエスプリ457

子どものいる場所 現代のエスプリ457

貴戸理恵不登校の子どもの「居場所」を運営する人びと――それでも「学校に行かなくていい」と言いつづけるために」を読む。とりあえず、ひとつだけ指摘。

専門家にとって必要なのは、こうした実践を適切に表現しうる言葉を「居場所」に供給していくことではないだろうか。(p.174)

いやいや、自分たちでやります/やれますから。というのは脊髄反射としても、真に問い詰められるべきは居場所の側なのではないかと。こうした「専門家」発言さえ飛び出してしまう(くらいにナメられてしまう)のは、居場所の側が、そこに固有の実践や方法について(壁の向こうの人たちにも理解可能なかたちで)表現する「オリジナルな語彙」を創出することに失敗し続けてきたからではないのか。そしてそれは単に、わたしたちの側の怠慢ではないのか。
もし仮にそうした「言語化」作業は荷が重かったというのであれば、そういうときには社会学者やマスコミを利用すればよかったのだ。ただしその場合には、彼らに好き勝手に書かせてはならないわけだが。手綱は絶対に放さず。取材には条件を提示し、書き手に対する統制は最後まで緩めない。運動の言説=政治とはそういうものだと思う。社会学者やマスコミ(その他諸々の権威)は利用するもんであって利用されるもんじゃない。自分たちの活動に関する定義権(つまりイニシアチヴ)を彼らに奪われてしまわないためにも、自分たち自身による「言語化」は不可欠なんである。
とはいえ、「定義権(イニシアチヴ)を手放すな」ということによって、「運動への批判を許容するな」とか言いたいわけじゃ決してない。自前の価値を自分で語るという広告的話法は容易に硬直や閉塞へと陥ってしまうわけで、その意味で「批判される」機会というのはきわめて貴重。要は、批判されるなら批判されるで、その批判をも政治的に――パフォーマティヴに――有効活用すべし、ということである。居場所の側における「言語化」の不徹底は、そうしたメタな政治的自覚の欠如にもつながっているように思う。自戒も込めて。