「読書ノススメ」がねらうもの。

高等予備科の授業をフルで担当するようになって2年目。今年度もまた、長期休業の折には、生徒さんたちにできるだけ本(活字)に触れてもらおうと、読書レポートを課すことにした。本日はその課題の概要説明をしたのだが、意外に食いつきがよい。昨年度はそうでもなかったのだけど。

テーマは自由。各自の興味・関心のおもむくままに、好きに選んでよい。ただし、該当する内容の「新書」を一冊選び、その内容に沿った形でレポートを作成すること。内容紹介とその論評(あるいは感想でも可)を400字詰め原稿用紙2枚以上の分量で行いなさい、というもの。

目的は二つ。第一に、とにかく実際に「本」というジャンルに触れてもらう機会を提供すること。第二に、自分だけのオリジナルなテーマを設定し、それについて考えるという機会を具体的に提供すること。そして、それらを通じて、継続的な「世の中」への関心のきっかけをインストールしてあげること。

言うまでもなく、「受験勉強」ばかりしていたらバカになる。「受験勉強」なるものが準拠する知識体系は、教科書検定制度のもとで「検閲済み」のものである。これは、特定の人々の特定の価値観の押し付けの「丸暗記」を意味するわけで、生徒にとっては二重の意味で「批判精神からの疎外」を帰結する。

第一に、「教科書の記述は、公正中立で偏りがなく、客観的に正しい」という偏った教科書(試験問題)観を無意識にインストールさせられているという点で。第二に、教科書の記述の具体的な内容(歴史観や社会観)そのものを、「受験勉強=丸暗記」という形式のもとで植えつけられているという点で。

そこに決定的に欠けているのは、「教科書の記述」という、それ自体偏りと政治的ポジショニングと利害関係とにまみれた「社会的産物」を、そういうものとして把握し、位置づけようとするまなざしであり、視野の広さである。教科書の知そのものを位置づけるのに必要な「文脈」への感度である。

教科書に代表されるような学校知を俯瞰できるようになるためには、教科書的な知識体系とはまったく別の(それとは矛盾さえする)知識体系との遭遇が絶対に欠かせない。ではどうすれば、そうしたオルタナティヴと接触可能なのか。思うに、そのために最適な知的装置としてお勧めなのが「本」なのだ。

繰り返す。教科書に基づいた「受験勉強」ばかりやっていると、志望校には合格できるかもしれないけれど、ほぼ確実に使えないバカになる。このことを私は、確信をもって言える。それに、こうした「教科書丸暗記」は、効率的に受験勉強を遂行しようとする場合にも、実は極めて有害だったりするのだ。

新課程に移行してからの県立校受験の出題傾向は、出題範囲が減ったにも関わらず(というかそれゆえに)、知識そのものの有無を問うものというよりは、その知識をどれだけ血肉化していて、自らのものとして使いこなせるかといったことを問うものへと、微妙なシフトを見せている。

つまり、ある特定の知識や情報に関して、予測不可能な角度から設問が浴びせられるような、そんな場面が急増しているのだ。そういった出題傾向に対抗できるようになるためには、それぞれの内部で、各種の知識を深い論理連関のもとに関連させ、それらを自己の一部として統御できていなくてはならない。

そう考えれば、そうした分散しがちな知識群の統御のための「軸」となるもの、「核」となる視点や関心あるいは動機づけこそが、彼(女)にとってはどうしても欠かせないものなのだ。そして、繰り返しになるが、そうした動機づけの促進のためにも、私はせっせと読書を勧めるのである。