可視化されるプライオリティ


今日から、大学予備科の「倫理・センター試験対策」の講座がスタート。突然担当が決定してから二週間ちかく、二重の意味において、文字通り「眠れぬ夜」をすごしてきた。第一に、当面の授業予習のため、読まなければならない文献や調べておくべき事柄が山積していて、寝ている場合ではなかったこと。第二に、しかしながら、山積する課題にもかかわらず、何から手をつけてよいかも分からずに時間ばかりが過ぎ、その焦りもあって「ゆっくりぐっすり眠る」ということができないでいたこと。前者はよい。だが、後者の焦りはいったい何に由来していたのだろうか。

以前も書いた通り、講座担当を引き受けたのは、自分が(動機づけがある程度明確な)若い人たちに「何か」を伝えることの可能な「窓口」あるいは「メディア」をもつことができるというメリットゆえである。担当が決定した当初は、そのことへの期待もあってか、参考文献を集めたり、授業の構想を組み立てたりといった脳内の作業が楽しくて仕方なかった。だが、講座の日程や外枠が明確化してくるにつれて、次第に困惑していく自分がいた。当初はあれほど伝えたい「何か」があったはずなのに、そう感じていたはずなのに、いざその局面が近づいてくると、その「何か」はだんだん見えなくなっていった。

この不明瞭さの原因とは何か。思うにそれは、その「何か」を伝えたい「相手」の「不在」に起因する。「不在」といっても、受講生がいないわけではない(当たり前だ)。どのような人々が自分の講義を聴くことになるのか、彼(女)らの前提はどこにあり、日々何を感じ、何を考え、何を求めて生きている人たちなのか等々、具体的に「この人たちに何かを伝えたい」と思えるような「誰か」を想定しえなかったということである。いったい、どこの誰に向けて、どのようなボールを投げればよいのか、まるで分からないわけだから、照準のしようもない。メッセージは「誰か」に向けて発するものだからだ。

もちろん、メッセージなんて「投瓶通信」でしかないわけで、「伝えたい相手」をどんなに厳密に想定したところで、その人に届く保証なんかない。どうせ何をやったって届きっこない、だったら何でもありか? 自分の投げたいボールだけ、投げたい方向に投げ続ける? いや、そんなこと、そもそも不可能である。というのも、私たちはそれを受信してくれる他者を想定することなくしては、何ら意味あるメッセージを発信することはできないからだ。ならば、それを無意識にゆだねるのではなく、徹底して自覚的に「受信者」を想定して「発信」すべきではないか――その上でなら、当然「誤配」もありである。

ともあれ、初日の講義を終えた今、私は非常にほっとしている。少なくとも今日、直接に顔を合わせて、「何か」を伝えていくべき「相手」の存在が自分のなかにインプットされた。彼(女)らに伝えるべきことは「何」か、その「何か」をどのように伝達していくか、そのために必要なこちら側の工夫とは何か、私自身に不足しているものとは何か等々、思案し準備していくべき具体的な案件がどんどん言葉として生成し、形を成していく。ぼやけていた像が焦点を結び、いろんなことが急速にスタートしたような、何かが突破されたような、そんな感覚。今日は、ゆっくりと眠ろうと思う。