「家庭教師の専門性」とは何か。


家庭教師というと「学生アルバイト」みたいなものが観念されるためか、その仕事の専門性というものが、とかく軽視されがちである。とりわけ学校教員と話していると、非常にしばしばそうした「素人は引っ込んでろ」的なまなざしを感じる。「教育の専門性」の独占的体現者としての自己イメージがそこにはあるわけである。

例えば、私の友人のある学校教師は、民間の教員である私と話すときに、口癖のように「教育現場では…」と繰り返す。これなどは、学校外における「教育現場」の存在を忘却しきった、想像力ゼロの典型的な発言だ。こうした学校教師の無意識が、自分でも気づかぬうちに、若い人たちを「生徒」として全人格的に学校に囲い込んでいくのである。

さて、ではその家庭教師の仕事に固有の専門性とは何だろうか。それは「各教科における知識の豊富さ」だろうか、それとも「各教科における指導の巧さ」だろうか。違った角度からこの問題を問い返してみよう。そもそも教師であることの根拠をどこに置けばよいのか。そのなかでも、私たち家庭教師は、「教える」という権力行使の根拠をどこに置けばよいのだろうか。

その根拠を「知識の豊富さ」と答えたあなた、あなたは教師失格である。知識量や情報量など、手元に携帯記憶媒体があれば、幾らでもカヴァーできる問題。したがって、そこには「教師の根拠」は存在しない。それにそもそも、記憶力の優秀さと、生徒を知識獲得へと動機づけ、その達成を支援する能力・技術とは、まったくの別物である。残念!

では、それは「指導の巧さ」だろうか。確かにそれは「教師の専門性」として位置づけ可能だ。教師とは「教える」という行為のプロフェッショナルであるから、これは当然である。だがそれは、1×nの価値伝達方式に付随する「学校教師の専門性」ではあれど、1×1の価値伝達方式を採用する「家庭教師の専門性」ではない。またも残念! ではその「家庭教師の専門性」とは何か。

思うにそれは、まずは「生徒の知的前提/コミュニケーション前提を読み解く力」なのではないかと思う。ごく当たり前の事実を確認しておくと、「生徒」である若い人たちの置かれた階層的背景や対人関係、知的な前提などは、個人(またはその出身家庭)ごとに、大きく異なる。制服や校則で差異を消去された学校での「生徒」の画一性からはなかなか想像しがたいが、実態としては、「生徒」は相当に多様である。

一人一人がまるで異なる「生徒」に効率的に指導を行う場合、指導する側に必要なのは、相手の認識論的前提、コミュニケーション前提がどこにあり、どこをどう刺激することでどのような動機づけが可能になるのか、その微視的なツボを見抜く能力と技術である。当然これは「学校教師」にも必要とされる資質だが、効率よい成績UPをノルマとする「家庭教師」の場合には、その速度が死活的に重要なのである。

さらに言うと、「家庭教師の専門性」は、「生徒」との「お勉強」を介した関わりのみに限定されない。家庭教師は、その「生徒」の家庭環境のなかへ踏み入っていくわけで、そこで「生徒」が置かれた立ち位置もまた否応なく視界に入ってくる。学力の面で伸び悩んでいるある生徒がいたとしよう。私たちの視点は、彼(女)の成績不振を「彼個人の問題」としてではなく、「彼を取り巻く家庭/人間環境上の問題」として位置づけるよう習慣づけられているのである。

そうした原因分析からも予測しうるように、私たちは「成績不振問題」に対し、必ずしも「学習指導の強化」のみであたるわけではない。彼(女)が成績不振に陥った――学業どころではなくなった――理由を、彼(女)の生活環境や家族状況のうちに見出し、その部分を優先的に手当てしていくのである。

それが例えば家族内部の人間関係上のストレスに由来するものだとするなら、こっそりその当該の相手(保護者など)に働きかけて、成績不振の元凶たる「ストレスフルな環境要因」そのものを撤廃しようと動くわけだ。こうした動きは、当該家族の内部における成員間の立ち位置や人間関係の力学がどのようであるか、ある程度メタに俯瞰するクールなまなざしがなければ、とうてい不可能であろう。

以上を簡単にまとめておこう。家庭教師が行うのは、生徒との知識量競争でも、不特定多数向け発信情報のわかりやすさ競争でもない。さらに言うなら、生徒個人に照準した教科指導だけでもない。われわれが行うのは、その生徒が学業に集中でき、自ずからそれに動機づけられるような周辺環境を整備してやることなのである。そのためには、家族やその他の人間関係を把握し、適宜そこに関与したり介入したりすることが絶対に不可欠である。

もちろんそれをどこまで行うかは、相当にデリケートな問題だ。しかし、まさにそうであるからこそ、その点(介入のタイミングや程度等)には、家庭教師という仕事の専門性が現れるのではないかと思う。経験や勘のようなものが求められる「職人芸」と言っても大げさではない。これが、「家庭教師」という社会的な営みの立ち位置なのである。