いつまでも、学生気分じゃいられない?


先日、久しぶりに母校の大学図書館を訪れた。研究室に恩師を訪ねた帰り道。卒業して以来、たとえ大学に寄ることがあったとしても、久しく足を踏み入れることのなかった場所だ。大学図書館は学外の一般利用者にも開放されているため、利用できなかったわけでは決してない。それでも、何となく立ち寄るべきではないような感じがして、立ち入ろうとはしないできた。今回もとりたてて用事があったわけではなかったのだが、懐かしさのあまりついふらふらと足を踏み入れてしまった。実に6年ぶりである。

思えばそこは、在学中の4年間の、自分の居場所のひとつだった。ヨーロッパ(キリスト教)の異端思想を研究していたため、研究の現場(フィールド)は遺された史料そのもの。図書館で史料や文献をひたすら読み込んでいくというのが、当時のわたしの日常風景だった。このため、学生生活にまつわる記憶は、必然的に、図書館を舞台としたものとなる。6年ぶりに訪れたそこは、当時と何ら変わらぬ姿をぼくに見せてくれた。

きわめて殺風景な館内、ろくに並んでいない開架本、まばらな学生――しかもその多くは就寝中――、やる気なさげな司書のお姉さん、そして窓から外を眺めれば、暇をもてあましてうろつく学生たち。停滞した淀みのような時間。無為や無意味をも寛容に包み込んでくれる優しい空間。不意にわたしは、胸が苦しくなる。それらのどれも、今の自分の日常には存在しないもの。意味や意義や効率や動機や機能や生産性にまみれた今の自分が失いつつあるもの、失いたくないもの。何かが、自分の中で音を立てて崩れる。

懐かしさを堪能したら、すぐに帰ろうと思っていた。次の仕事の準備があるし、明日の予習もやっておかなくちゃ。でも、とどこかで思う。足がとまる。目の前の棚には、読もうとは思いながらも在学中には結局読めずじまいだった懐かしの文献が並んでいる。何となくその一冊を手にとり、近くの空席へ向かう。頁を開き、視界の照準を活字の並びに合わせる。次第にぼやけ始める周囲の風景。

・・・何も変わらない。6年がたち、あのお気楽な学生の日々から遠く離れてしまった、俗塵まみれですっかり世慣れた現在の自分でも、まるで何も変わらない。書物に、そして思想に触れるということ。異質なるものとの遭遇。自分の枠組や前提がぐらぐら揺さぶられることの快感、自らを拘束していたものからの自由、思考することの喜び――それらのすべて、かつて自分が読書や研究のなかに見出した価値のすべてが、何ら色あせることなくそこには存在していた。

なぜ気付けなかったのだろう。なぜ忘却してしまっていたのだろう。いつの間にかわたしは、大学図書館は学生だけのもの、たとえ「一般開放OK」とはいっても、外部の人間はできる限り利用すべきではないもの、と思い込んでしまっていた。その思い込みを辿っていくと、「思想や研究は、学生や研究者のみに許された営み」だとか、「大学を離れた人間はむやみに学問や研究にアクセスするべきではない」だとか、よりいっそう根拠のない前提に到達する。

だが待て。改めて考えるまでもなく、そうした思い込みにさしたる根拠はない。いつだって、どんな状態でだって、知りたいと思ったとき、学びたいと感じたときに、それを始めてしまえばよかったのである。萎縮したり遠慮したりする必要はなかったのだ。それなのに、いつの間にか自分で自分を閉じ込めていた、「社会人らしさ」という思考の檻。自分を閉じ込めていたこの透明な檻の存在に、わたしはようやく今、気付いたのだった。

「いつまでも学生気分じゃいられない」

これは、卒業が近付き、早々と就職を決めて研修に余念がなかったかつての同級生たちがよく言っていた言葉だ。わたしはといえば、彼らに習って「学生から早く脱却しなきゃ」とそれなりに努力はしたものの、進学にも就職にも失敗してそれらを断念。挙句の果てには正規雇用のレールからも脱落し、不安定なフリーター(低賃金若年労働者)としての日々を送っている。「学生」であることから放逐されたものの、未だに「社会」の内に新たな居場所を見出せずにいる「学生以上、社会人未満」の存在、それが今のわたしだ。
だが、そんなわたしだからこそ、今ははっきりと思う。正規雇用が縮小され、非正規雇用が不気味に肥大していく今日にあっては、大半の若年にとって「社会人」などとうてい不可能。どのみちわたしたちは、学生でもなく、社会人でもない、不定形の未確認生命体である以外にはない。ならば、中途半端に「学生以上」になる必要などない。むしろ、徹底して「学生であること」を追求するべきだったのだ。「いつまでも学生気分」で、自らの求める価値をどこまでも追求するべきだったのだ。いや、「すべきだった」などというのはやめよう。わたしたちは誰であれ、その意志さえあれば、何だってできるし、何処へだって行ける。だからわたしはこう言おうと思う――「いつまでも学生気分でいよう」と。時代の閉塞を超克し得るような新しい価値は、そういう場からこそ生成するはずだ。

手にした思想史の文献を読み終えて、わたしは図書館を後にする。新たな発見と他者との出会い。また来よう、と思う。火曜と水曜の午後は休みだ。その時間を思考と研究にあてよう。6年前のようにまたこの図書館を訪れ、いつもの階のいつもの席で、ノートを片手に文献購読に励もう。そしていつか、長らく中断していた論文の続きを――そんなことをつらつらと考える。

新しい物語の予感。何かがまた始まろうとしている。*1

*1:『月刊・ほんきこ。』No.19(2005年3月号)