距離=言語を獲得せよ!

■フリースペースの運営や居場所づくり活動の現状をめぐって、常々感じてきたことがある。それは、(自分たちも含め)この業界における圧倒的な「言語の貧窮」という事態である。「言語の貧窮」とは、自分たちが実現しようとしている公共性を伴った価値が何であるのか、そのメリットとデメリット、その価値に自らを動機づけているものは何か等々、自らの行為について反省的に自己言及し得る語彙(あるいは言語化能力)を活動の当事者自身がもたないということである。
■そんなことはない、NPOは特定の明確なミッションに導かれた活動なのだから反省的自己言及が可能な言語を有するはずだ、という反論も当然あろう。だが、それはあくまで建前。NPO業界における言説の現状は、残念ながら、何ら反省的ではない自慰的な自己言及や承認欲求丸出しの自分語り――「こんなにすごいボクを見て!」――の域をほとんど出ていない。繰り返すが、このことは私たち自身にも十分に該当する。では、何が必要なのだろうか。
■思うに、「私(の価値)は〜である」という自分語りに決定的に欠落しているのは、その「私」を外部から眺める他者の存在であり、そのまなざしである。さらに、その「私」に隔たりをもって対峙するもう一人の自分の存在であり、そのまなざしである。距離化されたメタな視点。そうした視点が確保できてはじめて、自らの唱える価値が、自分を取り巻く社会や環境において、いかなる位置づけや影響をもち得る(得ない)かについてのクールな分析と判断が可能となる。
■では、その距離化されたメタな視点を確保するにはどうすればよいか。アプリオリにメタな視座など存在しない。予測不可能な他者(わけのわからないもの)の存在と直面したときにはじめて、私たちは、日常言語の範囲内に回収可能なレヴェルを超えたメタ・レヴェルに立つことができる。自らの置かれた環境や立ち位置への違和感、よそよそしさのなかでこそ、メタ・レヴェルの視点や言語は生成する。ならば私たちは、「私たち的ではないもの」と遭遇し続けるしかない。
■そう考えるなら、「自分さがし」(としてのNPO)の決定的な誤謬がわかるだろう。それが求めるのは自分の似姿だ。確かに「自分っぽいもの」は私を一時的に癒してくれるかもしれない。しかし、癒しに他者や距離や言語は不要。気がつけば、生温かい泥沼のような場所で、言葉を失い尽くして、何が苦しいのかもわからず悶え苦しんでいる私たち。もはや自明だろう。距離=言語を獲得せよ――これが、私たちが生き延びていくための要諦なのである。*1

*1:『ぷらっとほーむ通信』023号(2005年3月)