鈴木淳史 『「電車男」は誰なのか』

インターネットの匿名掲示板「2ちゃんねる」が生んだ初のベストセラー『電車男』。漫画化や映画化も予定されているらしく、すっかり社会現象と化してしまった感がある。
とはいえ「今世紀最強の純愛物語」という『電車男』受容のありかたと、「便所の落書き」という「2ちゃんねる」受容のありかたとの間には、深い溝と多くの謎が横たわる。なぜ『電車男』は(悪名高き「2ちゃんねる」発であるにも関わらず)かくも多くの読者の支持を得ることができたのか、その面白さや意義はどこにあるのか、私たちはこの物語とどのように接すればよいのか、等々。しかしながら、そうした謎も本書を読めば氷解する。本書は、「2ちゃんねる批評」でおなじみの、寒河江市出身の著者による「『電車男』の現象学」なのだ。
氏によれば『電車男』は、「2ちゃんねる」的であるにも関わらず、ではなく、まさに「2ちゃんねる」的であるがゆえに、売れているという。では「2ちゃんねる」的とはどういうことか。この匿名掲示板でのコミュニケーションの特徴は、そこではあらゆる言葉がかつての文脈や匂いを喪失し、フラットな「ネタ」へ変換され、終わりなき戯れが続くという点にある。もちろん「ネタ化」の効用とは、コミュニケーションの接続だ。未規定な存在、空虚な中心こそが、その周囲で豊かなコミュニケーションを喚起する。とはいえ、こうしたコミュニケーションの構造は何も「2ちゃんねる」の専売特許ではない。これは、かつて天皇制によって結束した私たち「日本人」には自明なはずだ。
電車男』=「2ちゃんねる」とは私たち自身、日本社会そのものだ。氏の結論に私は激しく同意する。だが本書は、「ネタ化」が喚起したコミュニケーションが、私たちをどこへ接続しようとしているのか、その点については沈黙したままだ。「ネタ」から「ベタ」への受容プロセスをたどる『電車男』。私たちの社会が行き着く先はどこか、『電車男』現象の顛末はそれを知るための格好の「ネタ」となろう。*1

*1:山形新聞』2005年2月20日 掲載