「非国民」のための人生相談

Q.
最近の言葉の乱れには、とても憤りを感じます。とくにひどいのは、敬語の乱れ。敬語は日本語にしかない、素晴らしい文化です。なのに、それを正しく使えない日本人が増えているのは嘆かわしいことです。こうした言葉の乱れとともに、最近の若者たちの間では、目上の人に対する尊敬の念が希薄になってきているように思えます。長幼の序は日本人の基本。この美しい伝統を保守していくためにも、みんなで純粋な敬語を守り続けていかなければならないと思うのですが、いかがでしょうか? (20代・ぷちナショナリスト

A.
端的に言って、「敬語=伝統を大切にしましょう」というのは、この質問者の個人的な趣味あるいは信仰の告白にすぎません。それを強要されるいわれは、(質問者ならざる)私たちの側にはいっさいありません。こんなふうに言うと、「敬語=伝統は旧くから日本人の間で育まれてきたものであるから、それを「個人の趣味」と同一視してしまってはいけない(ゆえに、日本人みんなが大切に保守せねばならない)のではないか」などと反論が聞こえてきそうです。では、なぜそうでないか、簡単に説明しましょう。
確かに、「敬語=伝統」は先行世代が産み育んできた貴重な価値です。それらは、長い長い歴史や社会の変動を潜り抜ける過程で、それまでの要素のあるものを殺ぎ落としたり、新たな要素を付け加えたりしながら、少しずつ姿かたちを変えつつ現在にいたったもの。しかしそれなら、伝統というものの人智を超えた凄まじさを重視するのであれば尚のこと、現代という一時代に限定されたちっぽけな視野しかもたない私たちごときが「壊れた」だの「乱れた」だのと価値判断することなど不可能。結局それは、私たちの私的な価値判断を基準に(凄まじい振幅や来歴とともにある)伝統を矮小化させるということにすぎないのであって、そうした振舞いは、伝統を大事にしようという態度とは関連しません(というかむしろ矛盾。伝統を都合よく切り貼りしようというのですから)。
そもそも、表層において壊れたり乱れたりするなかで、どんなに姿かたちが変わろうとも変わらない――変われば変わるほど変わらない――何か、そうしたものこそ、伝統と呼ぶに相応しい何かであると、私は考えます。誰かがわざわざ「保守」しようなどと意図せずとも存続していくもの、それどころか、みんなが破壊しても破壊しても執拗に持続し続けるもの、それこそが伝統なのです。
しかしそうは言っても、「伝統が壊れる」という物言いは、何となく私たちを不安にさせます。どこかで大事なものが失われつつあるのではないかと心配にもなります。しかし注意が必要。そこには言葉のトリックがあります。
質問者は、「○○が壊れる」という語りを採用していますね(※「○○」には何でも好きな言葉や概念――「天皇制」とか「長幼の序」とか「父性」とか「社会秩序」とか――を入れて下さい)。この種の語りは、「今まさに壊れゆく」という言いかたをすることで、あたかも「○○」が「かつて存在していた」かのような、そしてそれらが「本来壊れるべきではない」かのような印象を、聞き手に与えるという効果をもちます。こうした言説の作用により、「○○がかつて存在した」ことの証拠を示されたわけでもないのに、私たちはつい、語り手の前提を無条件に受け容れ(させられ)てしまいます。
かくして、「○○なる価値がかつて存在」→「近ごろ、○○が崩壊」(その原因はたいてい「戦後民主主義」)→「失われつつある○○の復権を!」という論理=物語が、聞き手のなかにある種の認識枠組としてインストールされることになります。換言するなら、「○○が壊れる!」という語り手の(意識的/無意識的な)発話のもとで、ひそかに、「○○という価値」が現在進行形で社会的に構築されているわけです。その意味で、質問のような語りにはくれぐれも注意しましょう。私たちの不安につけこんで、何かが創られようとしている――そんな時代に私たちは生きているのですから。