氾濫する「コミュニケーション」。


最近至るところで、「コミュニケーションのすすめ」的な煽り文句を耳にするようになった。「こころの交流」や「ふれあい」、「こころの理解」といった語彙がそうだし、「相手の気持ちを思いやれ」とか「場の空気を読め」とかいった言説もそれに含まれるだろう。自分もまた、動機づけに照準した空間設計(居場所づくり)という領域で活動してきたわけで、そうした用語法と無縁なわけではない。とはいえ、そうした「コミュニケーション」の氾濫には強い違和感を覚える。

では、何がどう違うのか。同じ「コミュニケーション」という語彙を用いた場合でも、それが学校的価値の文脈や磁場において用いられた場面とそうではない場面(市民社会的な価値の文脈。ぷらっとほーむは当然こちら)で用いられた場合とでは、その意味内容は180度異なることさえありうる。どういうことか。学校的なコミュニケーションに関しては、クラス(学級)という人間関係やそこで蔓延するコミュニケーションのかたちを想起してもらえばよい。

誰かが配置した同年齢限定の人間集団の中に日常的に強制収容され、合意のあるなしに関わらず誰かの設定したメニューを日常的に課されるという、強制収容−強制労働のシステム。それが、学級集団の実質だ。そうした文脈で教師(上位者)が放つ「コミュニケートせよ」とか「相手の立場を思いやれ」とかいった語彙が意味しているのは何か――「従順に統治されよ」、この一言に尽きる。

上位者の統治を従順に受け容れる身体のことを、通例「奴隷」という。学級という社会集団の枠組を従順に受け容れ、そこで当然生じ得る摩擦や葛藤はなるべく後景化するか(みんなと仲良く)、各自自分の中で処理するか(相手の立場を配慮)しなさい、というわけだ。社会学者・内藤朝雄はその著書『いじめの社会理論』(柏書房、2001)で、これを「感情奴隷」と定義する。冒頭で記した強い違和感、もっと言うと気持ち悪さや吐き気は、まさにここに由来する。

そうした「コミュニケートせよ=感情奴隷になれ」とは異なり、ぷらっとほーむでは「コミュニケーション」を、「他者との距離のとりかた」との関係で位置づけている。人はみな異なった前提や価値において生きている。それが成熟社会のコモンセンスだ。「心の理解」など、端的にあり得ない。であれば、必要なのは、お互いに共約不可能な領分を侵害しあわずに共生するための技法、すなわち他者(キライな相手)との距離のとりかた――断絶せず、侵害もせず――なのだ。私たち自身のための「奴隷解放宣言」が求められている。*1

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

*1:『ぷらっとほーむ通信』022号(2005年2月)