「わかりやすさ」から遠く離れて


あちこちで文章を書いたり、話をしていたりすると、よく次のように言われる。すなわち「あなたの話は難しい。もっとわかりやすく説明してくれ」というもの。仲間内でしか通じない専門用語(ジャーゴン)や読み手の存在をまるで想定できていない自慰行為のような駄文を読まされることの苦痛は確かに理解できる。自分の文章がそういうものでないとはまるで思わないが、それとはやや異なるところで、思うことを書いてみたい。

「わかりにくいことを、難解なまま書くのではなく、誰にでも理解できるように、わかりやすく書きましょう。」

巷には「文章の書きかた」を説くハウツー本があふれているが、だいたいどの本でも著者は、上記の紋切り型を披露してくれる。現代は、インターネットやケータイ文化の隆盛に見られるように、誰もが読み/書く時代だ。そうであればこそ、(専門家やマス・メディア=「言葉」を操作できる一部の特権者だけではなく)誰もが読み/書くことができるような、前提の引き下げが必要なのは確かだ。「誰にでもわかりやすく」はそうした世の需要に対応するもの。なるほど、それは自明なことに思える。だが果たしてそうか。
書くということ、表現するという行為は、それが情報や価値の伝達(コミュニケーション)という目的を有する以上、必ず誰か特定の受け手=読者を想定して為されるものでなければならない。もちろん、「読者の想定」などという余裕のまるでない場所からの絶叫や悲鳴のような表出が、偶然それに遭遇した者の琴線に触れて、結果的に読み手を見出すということがありうること――誤配の可能性――を、否定しはしない。だが、それはとうてい一般化できる方法ではなかろう。やはり、読者の想定は不可欠だ。
そう考えたとき、先の「誰にでもわかるように」とは、いったいどのような読み手を想定していると考えられるだろうか。「誰にでも」とはつまり、「みんな」を読者として想定しているということだ。そこで改めて問いたい。その「みんな」とは誰なのか。
「みんな」という抽象的な用語法には、言葉や文章に馴染んでいる人もそうでない人も含まれる。また言葉や文章と一口に言ってもさまざまな領野があるし、その中でもさまざまな程度の専門性がありうるわけで、そうした術語を習得している人もそうでない人も含まれる。当然、同じメッセージを受信したとしても、その理解度や受け取りかた、解釈のしかたはそれぞれだろう。
そうした読み手の多様性を前にして、それを「みんな」と安易に一括してしまう発想は、私には、能天気な理想論にしかきこえない。「みんなに」などと欲張れば、結局は、誰にも何も伝わらない。「何か伝えたいことがある」、そう思ったとき、そこにはそれを伝えたい「特定の誰か」もまた存在しているはずだ。とすれば、必要なのは、単なる「読み手の想定」ではなく、「特定の読み手の想定」なのだと言えるだろう。
私がいったい誰を想定して書いているかは、読者諸賢のご想像にお任せしたい。ただ私が「みんなに」を予め断念していることだけは明言しておく。考えてもみてほしい。自分がこれまで自らに固有の生のなかで獲得してきた経験や言語を、自分以外の「みんな」に低コストで理解されてしまうとしたら、それは自分という存在が、不特定の誰かと入替可能な部品みたいなものにすぎないからではないかと、私は疑わずにはおれない。絶対に理解し合えない、共有し合えないからこそ、私たちの経験や表現は尊いのだ。そういう「わかりあえなさ」のなかで、だからこそ何かを分かり合いたい、分かち合いたい「特定の誰か」がいるということ。そうした矛盾した契機のなか、私はこれからも、その「誰か」にむけて書き続けていくのだろう。*1

*1:『月刊・ほんきこ。』NO.16(2004年12月号)