「フリーター問題」という問題。


先月に引き続き、若年情報誌『これが わたしの、いきるみち。』の出版に関する活動報告――教育研究山形県集会「評価・選抜制度と進路保障」分科会での事例発表や東北公益文科大学の授業「教育と公益」でのゲスト講義――の機会が続いた。若年の生きかたという最近話題になりがちなテーマだということもあってか、報告後はさまざまな質問を受ける。中でもよくあるのが、「あなたは、フリーターやニートの存在を肯定するのか?」という質問(あるいは糾弾)だ。

少し前であれば、上記の質問文の「フリーターやニート」の箇所には、「不登校やひきこもり」が入っていた。その裏面にあるのは、「学校−企業」というレールから外れた若年逸脱者を「異常で危険なもの」として社会的に名指し、統制していこうという意識だ。そうしたまなざしからは「フリーター」も「ニート」も基本的に「本人の甘え」ゆえの現象であり、社会や国家にタダ乗りするろくでもない連中ということになる(不登校・ひきこもりは医療化されたため除外)。

だが待て。そもそも「フリーター」とは、企業がリストラの過程で必要とするような低賃金労働力の供給源である。派遣社員がその典型で、とすれば派遣労働を推奨し「フリーターなしでは回らない社会」を創出した「構造改革」こそが、「フリーター問題」の根源であるはず。だが実際には、真に責任を負うべき政策主体(やそれを支える世論)は、若年を窮乏化へと追い込んだ自らの言動には目をつぶり、逆にそれを「甘え」という形で、若年に責任転嫁しようとしている!

こんなアンフェアな状況で「フリーターは是か非か」などと問うことに果たして何の意味があろう。既に構築済みの「フリーターなしでは回らない社会」は、これからもたくさんの「フリーター」を必要とするだろうし、それにあわせて(学校現場の思惑はどうあれ)「フリーター」――能力を「低開発」された若年労働力――は今後も大量に排出され続けるだろう。「フリーター」はもはや、逸脱者やマイノリティなどではない。それは、私たちの日常の一部なのだ。

大勢の人々が「自分とは無関係な、どこかの誰かの問題」として「フリーター」を捉えている限り、真に解決されるべきフリーター問題――正社員中心主義によるフリーター差別の問題――は解消されない。誰もがそうなりうるものとして「フリーター」を捉え、自分たち自身の問題として「フリーターのいる社会」のことを考え始めたとき、ようやく私たちは、この問題についてフェアに考えるためのスタートラインに立つことができるだろう。*1

*1:『ぷらっとほーむ通信』020号(2004年12月)