若者たちの居場所づくり

  • 居場所づくりという方法

 地方都市の山形で、若年世代自身の目線から、子ども・若者たちの居場所づくりの活動に携わるようになって4年目になる。若年の居場所づくりと言うと、不登校ニート・ひきこもりなど、社会的弱者とされる若年だけを対象とした活動と思われがちだ。しかしながら、実際にフリースペースを開設し、そこに通ってくる人たちを迎え入れる活動をしていると、居場所に集うのは、必ずしもそうした社会的弱者の若者たちばかりではないということがわかってくる。   
 社会的弱者のカテゴリーに分類されるわけでもない、ごく普通に学校に通い、会社に勤めているように見える若年もまた、数多くフリースペースを訪れ、そこを自らの居場所として活用している。つまりは、表向きは学校や職場に毎日通っていても、家庭生活を普通に送っているように見えても、そこに自分の居場所を見出せずに、漠然と不全感や生きづらさを抱えながら生きているような若年が数多く存在しているということなのだ。社会的なリスクが若年に過度に配分されているような現状にあっては無理もないだろう。
 ともあれ、そうした若年が誰であれ気軽に集まり交流できるよう、住宅街の一角に家を借りて、そこを日常的に開放し、さまざまな若年を迎え入れている。後述するように、私たちは教師でも心の専門家でもないから、指導したり治療したりはしない。ただ、生きづらさを抱えたまま孤立して苦しんでいる同世代の若年に、同世代の仲間と出会ったり、交流したりできる具体的な場と機会を提供しているだけである。そこでの自由な時間、緩やかな刺激を通じて、彼らは欲望や動機、自信を回復し、やがて自らの新たな日常へと旅立っていくのである。
 フリースペースに集いそこで動機を獲得していく若年が、不登校やひきこもり、ニートなど社会的弱者のカテゴリーに属する者たちだけに限られないということからも、居場所づくりという若年支援の方法論は、若年全体(それは今や潜在的な社会的弱者である)に対する支援に関しても十分な有効性があると言える。具体的に、そうした若年の居場所を構成している諸要素を析出し、そこにある発想や視点、方法をモデルとして抽象化することができれば、あとはそれを応用してマクロな若年支援策を構想したり設計したりすることも可能になる。その意味で、若年の居場所づくりについて考察することには、社会的な意義があるのである。

  • スロースペースとしての居場所

 居場所づくりとは何であるか。居場所を構成するのは、場所(スペース)と人(スタッフ)という二つの要素である。したがって、居場所の条件とは、いかなる場所を選び、そこにどのようなスタッフを配置し、そのスタッフを通じて、そこでどのようなコミュニケーションを実現しようとしているのか、ということのうちに現れる。ここでは特に後者が重要である。
 では、その居場所スタッフに固有のコミュニケーションの作法とは、どのようなものなのか。それが何であるかを見る前に、まずはそれが何でないか、確認しておきたい。それは教育や指導のような学校的コミュニケーションでも、カウンセリングや治療のような臨床的コミュニケーションでもない。これらに共通するのは、抽象的に言えば、ある特定の「速さ」が専門家によって強要されるようなコミュニケーションだという点である。
 「速さ」とは何か、補足しよう。子どもであれ大人であれ、高度に資本主義化された現代社会に生きる私たちは、「生産的であれ」とか「効率的であれ」といった規範を無意識のうちに身体化され内面化される過程の内部にある。この規範を、時間という観点から語りなおすと「もっと速く!」ということになる。そう考えれば、学校も企業も臨床も、基本的にはこの「速さ」の肯定を前提として回っているシステムだと言えるだろう。
 学校・職場でも臨床現場でも、まずはそこに上下の序列関係が設定され、一方が指導や治療をひたすら与える側に、他方がそれらをただ受け取る側に配置され、前者には「正しさ」が、後者には「誤り」が配分される。そうなれば当然、システムへの適応不全の若年の存在を前にした場合、システム側の問題点ではなく、若年側の問題点のみが焦点化される。要はその方が問題の解決に要するコストが少なくて済むからで、したがって「問題」は、若年個々人の態度や内面へと帰属され、そのレヴェルで対処されることになる。
実はそこでは「人間に優しくない社会システム」への異議申立が若年により密かに行われているのだが、そうした声が相手にされることはない。「速さ」、つまり効率性に抵触するためだ。上下の役割を明確にしてノイズを減らすこと。余計なことは考えないことが大事なのだ。となるとそこで行われているのは、速度に通じた大人の専門家が、速度に馴染めない若年を「速さ」のシステムへと規律化するという事態なのである。それも、あるときはハードに(教育的作法)、あるときはソフトに(臨床的作法)。
 そうした速度、つまり他者の時間を強要される場や関係に対する無意識の拒否反応が、不登校やひきこもり、ニートなど、システムから降りる若年の現象だとすれば、そしてそうした速度の強制を拒絶した者たちにとって敷居の低い場をつくろうとするなら、そこでのコミュニケーションの絶対条件とは、「遅さ」が許されるということ、自分の「速さ」を自分で決めることができる場でなければならないということになる。つまりは、速度の自己決定権を保障していくことが、決定的に重要なのだ。
 この権利、すなわち自らの学びと育ちの速度を自分自身で選択し決定する権利を保障するために、フリースペースでは若者たちそれぞれのペースを最大限に尊重するよう心がけている。したがって、居場所のスタッフに求められるコミュニケーションの作法とは、彼らがそれぞれのペースで過ごせるように、どんな「遅さ」の者もどんな個性のありかたをも受け容れていくような、寛容な振舞いなのだということになる。当然スタッフにはある種の想像力が求められることになる。
 教育や臨床の現場に欠けているように思われるのが、実はこの想像力だ。そこでは、指導や治療の対象となる若年一人一人の側に動機づけ(学びたい/治したいという動機)があらかじめ存在する、あるいは存在してしかるべきだと前提されがちだ。「子どもは勉強すべき/若者は仕事すべき」等の言説がそうだ。だがそうした自明性の想定は、実のところ、当事者の若年にしてみれば、既に相当に敷居が高い。
年長世代からすれば自明だったかもしれないそれらの価値は、成熟社会に生まれ育った若年にしてみれば、もはや形骸化し、自分の生とは無関連の何かに過ぎなくなっている。これは「最近の子ども・若者がダメだ」からでは決してない。70年代以降に生まれた団塊ジュニア世代の若年にとっては、生まれたときには既に、社会の物的欠乏が克服され、そうであるがゆえに、かつて人々を強固に動機づけてきた「豊かになろう」という国民的な目標(大きな物語)も失われてしまっていた。そのような若年世代にとって、「社会に出る」とは、既に出来上がったシステムの中に、その取替可能な部品としてはめ込まれる以上のことを意味しない。誰とでも入替可能な部品になりたい者などいないわけで、だとすれば「動機づけの貧窮」は、現在の若年にとっては、世代的な初期条件なのである。
 したがって、その初期条件への想像力、すなわち若年の「やる気のなさ」を前提とした関わりかたが、彼らとのコミュニケーションには求められているのである。「子どもは勉強して当然」とか「若者は就職するのが当たり前」といった、かつての価値や常識を自明視することなく、現在目の前にいる若年の前提がどこにあるのかを、彼らの声に真摯に耳を傾けながら丁寧に探っていき、彼らと同じ前提まで降りていくこと。そのなかで、少しずつではあれ、私たちと彼らとの共通領域や関係性を構築していくこと。当然、そうした関わりは、非常に緩慢な過程となる。粘り強くその「遅さ」に付き合うことができなければ、居場所スタッフの仕事は務まらないのである。

  • 動機づけへの照準

 速度の自己決定を保障する(ありのままの自分を受け容れてくれる)ことが、学校や臨床の現場と異なる居場所の価値だと述べた。これこそが、居場所の居心地の良さの要因である。ではその居場所で、彼らが新たな動機づけを獲得したり、欲望を回復したりするのは、居場所のもついかなる価値やしくみによるものなのか。ここでもまたフリースペースの構成要素を分析することで、居場所の機能や作用の起点がどこにあるのかを明らかにしていきたい。
 先にも触れたが、若年がシステムから降りるのは、社会システムが既に完成し尽くされていてもはや自分たちの関与し得る余地がない、余りにもよそよそしいもの、敷居の高いものになってしまっているという実感があるためである。別にそれが自分でなくとも構わない、他と取り替えがきくのであれば、わざわざ努力したり苦労したりしながら、システム内部に自分の場所を確保することに意味はないという感覚だ。単なる穴埋めや誰かの代役でしかない仕事に、自己の存在の「かけがえのなさ」が感じられるわけがない。フリーターに典型的なように、そうした役回りが重点的に若年に配分され、それに順応しなければ「最近の若者は」と断罪されるというのが現在の若年が置かれた状況なのだ。
 そうした点を踏まえるなら、動機づけの回復や創出のために必要な居場所の特性とは、まずはそこに、彼らが関与し改変する余地が残されているということだ。場のしくみやルールに関して、それが気に食わなければ、それに対して正当に異議申立ができる機会や権限が彼らにも認められているということ。自分を取り巻く環境に対して働きかけ、状況を主体的に変えていくためのイニシアチヴが保障されているということ。換言すると、それは、場の正当な構成員として、その判断や意志が尊重されているということでもある。自分を「かけがえのないもの」と扱ってくれるような、そうした承認体験を経てはじめて、人はそれを与えてくれる場を尊重し「かけがえのないもの」と認識できるようになるのだと思う。たとえそれがどんなに未熟でも稚拙でも、まずは彼らの声を尊重し、きちんと耳を傾けること。居場所のスタッフが特に留意しているのもそこだ。
 指導や治療など「正しい動機」を上から下へと注入するような関わりかたでは、彼らにとって「かけがえのない」動機づけは生じにくい。動機づけとは、生への欲望そのもの。欲望を外部から他者に強制注入することなど不可能なのは自明だ。そうではなく、ここでもやはり若年の前提や速度に可能な限りゆっくり寄り添うことが大事なのだ。居場所を訪れた誰しもが、最初は「やりたいこと」の空白に戸惑う。しかし、その空白の中だからこそ、他者に急かされることなく、ゆっくりじっくり思考し、試行錯誤しながら、自分の欲望や動機を確認できるのではないかと思う。このそれぞれの動機模索の過程を、私たちは特に大事にしている。他者に強要されるものではなく自分で選択する過程であるだけに、その試行錯誤は、それだけ自らの自信にもつながり得るものであろうから。ところで、そうした指導や治療の禁欲、つまり「若年のイニシアチヴを待ち、それに応えること」だけが、動機づけの創出や回復に資する居場所スタッフの方法論の全てではない。
 考えてみよう。貨幣の獲得や身体的な欲求充足をのぞけば、人は「おもしろそうな人や物事」に動機づけられるもの。何だか楽しそうに生きている人々やそうした人々の集まる場には、自然と関心が集中する。そこには模倣の動機が生まれるもの。そもそも「私たちが欲望する」とは、「他者が欲望する」ことへの欲望であり、模倣の欲望である。誰も欲しがらないものを私たちは欲しがらない。とすれば、まず私たちに可能なのは、自らの欲望や動機――好きなことや楽しいこと――を誠実に追求すること。そしてその欲望や動機のありようを、居場所の彼らにさらけ出すことだ――ただし、それを唯一の「正しさ」として押し付けることなく。自らがその価値をじっくりと楽しく享受してさえいれば、強要するまでもなく、その価値は模倣され、伝染していくだろうから。
 そう考えると価値の伝染とは、スタッフから若年へ、あるいは若年からスタッフへという双方向的なものであることがわかる。私たちが大人の視点、専門家の視点をあえてはずし、対等な目線での関わりをこそ強調するのはそのためである。ともに過ごし関わり合う日常の中、それぞれが興味を感じた場面において、互いに教え合い学び合うこと。その支え合いの中で共通の前提を少しずつ積み重ねていくこと。つまりは、大人であれ子どもであれ、未完成な人間どうしが互いに手を取り合って学び合い、ともに成長していくこと。これが居場所に固有の方法なのである。

  • 社会の中に居場所を埋め込んでいくこと

 以上をまとめるなら、居場所の要件とは次の二つに要約することができる。すなわち、①ありのままの自分で居られる場、役割期待から降りることが許された場であるということ、②各々の判断や選択、決定が尊重され、何らかの自己関与の余地が存在する場であるということ、である。既存の学校や職場、家庭からどんどん欠落しつつあるもの、その欠如が若年に過度の生きづらさを強いているもの、そして彼らを居場所へとひきよせ、そこで動機づけを回復させるにいたるもの、それがこの二つの契機なのである。
 ところで、この二つの条件は何も、フリースペースという居場所だけでしか得られないものではない。居場所というものを広義に捉えれば、この二つの条件を備えた場や機会は何であれ、若年にその人だけの「かけがえのない」居場所を、そしてそれゆえに「かけがえのない」動機づけを提供しうる。人によっては職場や学校が居場所だという者もあろうし、家庭がそうだという者もあろう。あるいは趣味の世界や交友関係がそうだという者もあろう。それらの場や機会には、等しく居場所の機能が宿り得る。
 とすれば、既存の社会システムから降りる若年を少しでも減らすには、上記の居場所の条件を、学校でも職場でも家庭でも、各所で可能な限り、取り入れていくしかない。若年の声をきちんと尊重し、その試行錯誤を保障してくれる、そして何よりその存在を信頼してくれるということ。そうした入替不可能な場であれば、そこが彼の居場所となり、そこで彼は新しい動機を獲得して成長していけるはずだ。要は、若年世代と年長世代の共同参画が可能な、両者が対等な関係のもとに協働していける社会のしくみづくりが必要なのである。
 残念ながら、若年支援といったときにありがちなのは、若年を取り巻く社会の側には手をつけずに、若年の側、しかもその態度や内面だけをつくりかえようという発想である。若年の現象があくまで現代の社会状況に密接に連関した派生物である以上、それを取り巻く社会状況を温存すれば、若年の「問題」もそれに引きずられて残存する。本気で状況を変えようと思うのであれば、痛みを伴う再編が必要なのだ。すなわち、「自分たち年長世代は正しいが、若年世代は誤っている」という前提を棄てることが。必ずしも正しくはないかもしれない年長世代が、必ずしも間違ってはいないかもしれない若年世代との間で、新たなしくみづくりを求めて、対等にアイディアを交換し合うこと。それぞれの世代がその内部に胚胎する可能性を発掘し、それらを適切に評価し、位置づけていくこと。そういう世代間の関係が、社会の各所で成立してはじめて、若年支援というものがようやく機能し始めるのではないだろうか。

 それでは、若年が降りない社会とはいったいどのような社会か。それは、効率性や生産性、意味や速度をひたすら重視するような画一的な社会ではなく、そこにたくさんの居場所――遊びや遅さ、無駄や無意味が許される場所――が点在しているような社会である。それは、均質な価値がのっぺりとどこまでも平板に拡がっているような社会ではなく、多様な価値やライフスタイルが混在しつつも共存しているような社会である。価値が多様化し、社会が複雑化していく過程は、現在も進行中だ。しかしながら、私たちは既存の社会システム、すなわち高度経済成長期に確立した教育/雇用/家族システム(終身雇用、年功賃金、新卒一括採用、郊外中流核家族モデル)が要請するような「いい学校、いい会社、いい人生」のライフコース・イメージから容易に抜け出すことができない。どうすればよいのか。
 既存の価値規範に強固に縛られてしまうのは、それ以外の可能性をうまく想像できないからである。そこで想像力が働かないのは、そうした既存のありかたに替わる別の選択肢(オルタナティヴ)に関して、身近で具体的な事例を知らないからである。では、別の選択肢が社会の中に全く存在していないかというと、まるでそうではない。「いい学校、いい会社、いい人生」のイメージから降りた若年の一部は、降りた先で、従来の価値や制度への違和感をもとに別の選択肢を創出し、その新たなる価値を追及し始めている。働きかた一つとってみても、現にNPOやNGO、社会起業家フリーエージェント、ワーカーズ・コレクティヴ、週末起業など、多様なありかたが各所で模索され始めている。こうした社会的な試行錯誤の経験は、私たちの社会が、将来を構想するにあたって参照できる第一級の生きたサンプルとなりうるものだ。しかし、こうした若年の試行錯誤について、果たして私たちはどれだけその実態について、そしてその可能性について知っていると言えるだろうか。
 とにかく、選び得る別の選択肢についての知識不足、情報不足を乗り越えない限り、既存のものとは異なる何かを構想し想像することは困難だ。とすればまず必要なのは、若年の多様かつ複雑な試行錯誤の現実をきちんと把握し、評価し、位置づけていくこと。たとえそれが稚拙だったり未熟だったりしたとしても、そこに胚胎しつつある可能性を丁寧に跡づけていくこと。そうしたまなざし――若年の試行錯誤を応援し、その価値を社会的に位置づけるようなまなざし――の存在は、オルタナティヴを志向するがゆえに孤立しがちな若年に対し、貴重な動機づけや自信を与える契機ともなる(そうした可能性を、山形県内の若年のオルタナティヴな取り組みの中に追求したものが、やまがたの若者たちのいろんな生きかた情報誌『これが わたしの、いきるみち。』2004年)。結局のところ、そうした身近で具体的に選び得る別の選択肢の多様さや豊かさこそが、社会の豊かさそのものであり、そこを長期的に手当てしていく――社会の中に若年のオルタナティヴな居場所を増やしていく――以外に、有効な若年支援策など存在しないのである。*1

ジャイロス―現代を考える (#8) 特集 職場の若者 Gyros 8

ジャイロス―現代を考える (#8) 特集 職場の若者 Gyros 8

*1:諏訪春雄責任編集『GYROS8 特集:職場の若者』(勉誠出版 2004年11月)