わたしたちのスタートライン。


最近、若年情報誌『これが わたしの、いきるみち。』出版(とその延長の諸々)にまつわる企画――公開シンポジウム「山形vs若モノ 〜地域づくりフォーラム〜」や山形地区教育研究集会「進路指導を考える」分科会での事例報告――が続いた。身近な若年の具体例を提示することで、いろんな生きかた、オルタナティヴなライフスタイルの敷居を下げるのがねらいだ。だが、意に反して、参加者からは次のような感想が寄せられる。「どうせ彼らは勝ち組だよね」と。

断言しておくが、私は「勝ち組」とか「負け組」とかいう言葉が大嫌いだし、そうした貧窮な語彙を違和感なく使えてしまうような人も(以下略)。人々のさまざまな生きかた、相互に取替のきかない固有性の、その多様さや猥雑さを、「勝ち/負け」という一元的な価値基準のみに照らして性急に評価し、位置づけ、平板に名指すその「速度」にはウンザリである(余談だが、この理由から私は、そうした語彙とその語り手を取材対象者リストから削除している)。

とはいえ、若年オルタナティヴを「勝ち組」と名指す――言い換えると、彼らにある種の強度や凄みを感知する――その感受性には、やはり根拠がないわけではなかろう。というのも、かくいう私自身がそうだったためだ。取材の過程での彼らのユニークでインディペンデントな生との接触は、「同じだけの年月を生きてきているにも関わらず、何も構築できないでいるダメな自分」との直面を意味した。「すごく面白い!」と感動する反面、それは正直、直視するには痛すぎた。

痛いときや鬱陶しいときはどうするか。答えは簡単、それを「自分とは無関係なもの」として意識の外に追いやってしまえばよい。オルタナティヴな生きかたなんて自分とは無関係、どうせ特殊な強い人たち、勝ち組な人たちのお話でしょ、なんていうふうに。だが待て。よく耳をすまし、彼らの声を冷静に聴いてみて欲しい。「好きでもない仕事はしたくないなあ」とか「楽しくのんびり生きていきたいなあ」とか、そこに垣間見える欲望は、私たちとも共有可能だ。

そう感じられるようになったとき、はじめて私は、彼らを等身大の姿において捉えることができたように思う。オルタナティヴな一歩を踏み出したとはいえ、ごく普通のどこにでもいるような若者たち。とすれば、自らの等身大の欲望――ここでは「遅さ/弱さ」と呼ぼう――に徹底的に執着するという、その姿勢や意志やこだわりの内にしか、私たち/彼らの差はないはずだ。「遅さ/弱さ」というスタートライン、そこからわたしたちはどこへだって行けるのだ。*1

*1:『ぷらっとほーむ通信』019号(2004年11月)