現実のつくりかた。 


フリースペース(居場所)運営というあまり例のない活動をしていたりすると、時折、メディアの取材を受ける機会がある。某テレビ局の取材を受けたときの話だ。その記者いわく、「フリースペースで行われている支援が、不登校やひきこもりの子どもたちに直接的に役立っていることを映像で伝えたい。報道により問題の実態を伝えることで活動の力になりたい」とのこと。そのためにも、是非フリースペースの子どもたちには、TVカメラの前で、支援がいかにありがたいかとか、スタッフにどれだけ感謝しているかとか、そういう「わかりやすい」言葉を吐いて欲しい・・・とまあ、簡単に言えば、そういう「取材」の依頼であった。

当然ながら、支援の現場はそんな「わかりやすい」物語だけから成り立っているわけではないし、第一、TVカメラの前で、自らをさらすことのリスクは、不登校やひきこもりの当事者にとっては極めて大きい。そんな、差別や偏見や蔑視と無縁であるとはまるで言えない社会に私たちは生きている。

「メディアは真実を伝えるべきだ」的な建前くらいは自分も知っているので、「それって『やらせ』っていうんですよね?」くらいの嫌味は言ってみる。しかし、記者いわく、「蓋然性が高い場合であれば、それは『やらせ』とは言わない」とのこと。不登校やひきこもりの問題の深刻さを伝えるためには、それを視聴者にも容易に理解できるように「わかりやすく」情報提示しなければならない。そのためにはとにかく「わかりやすい」映像が必要。適切な映像がなければ、それなりに「もっともらしい」映像を「編集」するので大丈夫・・・ということだった。

さて、彼/彼女のいう「もっともらしさ」とは、いったい何をさしているのだろうか。それは、いったい誰にとっての「もっともらしさ」なのだろうか。

メディアの受け手が、どのような情報を「もっともらしい」と受け取るかは、実は不明なはずだ(だって、社会の片隅で発生している現実の姿を、受け手は、メディア視聴以前には知り得ないのだから)。何が「もっともらしい」か、判断する材料は受け手の側にはない。であればこそ、判断材料そのものの提供としてメディアはまず機能しなければならないはずだ――たとえそれが「わかりにくい」ものであったとしても。

ところが実態はどうか。取材者が先回りして、みんながもっともだと思うであろうと、彼/彼女が想定する「真実っぽいもの」――そこには、偏見や蔑視や先入観も当然含まれている――を、「編集」という名目で新たに現場の「真実」そのものとして構築してしまっているのだ。とすれば、そこで生じているのは、いったいどのような事態なのか。

作り手の側が自らの「常識」や「思い込み」を頼りに「それっぽく」創りあげた像を、受け手の側では「真実」として受け取り、かくして、私たちの「常識」や「現実」が社会的に構築されていく。そしてそれが再び、作り手の前提となり・・・、あとはその繰り返しだ。とすれば、私たちはいったい何を見、何を知り、何を感じていると言えるのだろうか。この循環においては、当然ながら、私たちの想像の及ばないもの、思いもかけないもの、想像したくないものは排除されていく。私たちは、予め私たちが知っているものにしか触れられなくなる。かくて、私たちの想像力はますます狭められ、失われていく。

後日談。結局、私たちは取材を受けた。記者の言葉に納得したからではもちろんない。自分たちがメディアの記号操作の対象になることで、「編集」の恣意性や権力性を学ぶ機会にするためだ。放送を見て、そのあまりのベタさに、私たちは憤りをこえて、ただただ笑ってしまう。その笑いの意味は、ともに笑っていた子どもたちにも、きっとどこかで届いているはずだ(とこっそり思う)。*1

*1:『月刊・ほんきこ。』No.15(2004年10・11月号)