オルタナティヴであるとはどういうことか。

やまがたの若年のオルタナティヴな生きかたに関する事例を取材したインタビュー誌『これが わたしの、いきるみち。』を3月に上梓して以来、さまざまな取材に応じる機会があった。そのなかでよく聞かれた質問に次のようなものがある。「インタビュー対象となった15人の事例は、どのような基準で選ばれたのか」という質問だ。本のテーマが「オルタナティヴな生きかた」なのだから、それがいかなる意味においてそうなのかが問題になるのは当然だ。

オルタナティヴ」とは、代替案(別の選択肢)のこと。したがって「オルタナティヴな生きかた」とは、既存のライフコースに対する諸々の代替的なライフスタイルを意味する。既存のライフコースとは、言い換えるなら「いい学校、いい会社、いい人生」と呼ばれるような、高度経済成長期に大衆化した郊外中流核家族の単線的な人生観とそれを支える制度のこと。みんなと同じようにいい学校に通い、みんなと同じようにいい会社に勤めることが幸せ、という発想だ。

この「みんなと同じ」というのが曲者だ。戦後日本の教育/雇用システム(終身雇用、年功賃金、新卒一括採用)が機能していた時代はそれでよかったのだろうが、現在は決してそうではない。「みんなと同じ」であることの制度的な保障がもはや機能していないからだ(雇用流動化、成果主義、新卒無業)。とはいえ、急に「みんなと同じ」ではない幸せを追求せよ、と言われても戸惑ってしまう。身近に「みんなと同じ」でない具体的なモデルが見当たらないからだ。

まさにこの「具体的で身近なモデル」にこそ、『これが わたしの、いきるみち。』は照準する。「みんなと同じ」ではない生きかた、既存のシステムにはない新しい何かを創りだそうと「やまがた」の現場で実践している「若年」を対象にすえたのはそのためだ。だが、ただ新しい価値の創出に取り組んでいるということだけが、ここでの「オルタナティヴ」の基準なのでは決してない。実はもう一つの基準が存在する――それは、速度への抵抗である。

「みんなと同じ」の代替案としては、その「みんな」よりもっと速く生きよう(勝ち組になろう)という発想も可能だ。効率や速度のさらなる追求も、新しい価値には違いない。しかしそれは、結局のところすべてを流動的で入替可能な部品にしてしまう。これではとても代案とはいえない。大事なのは、私たちが、他者の存在のかけがえのなさ、その固有の「遅さ」への想像力を失わないことだ。15人は、そうした想像力の生きた事例である。ぜひ一読してほしい。*1

*1:『ぷらっとほーむ通信』018号(2004年10月)