《居場所》ノキオク。


フリースペース(居場所)運営というNPO活動に関与するようになって、早くも四年目に突入してしまった。フリースペース/フリースクールというと、「こころの専門家」みたいに誤解される場面も多くて、いいかげんうんざりしている。他はどうあれ、ぼくはこれまで自分が関与してきたフリースペースを、その手の「こころの専門家」として位置づけたことは一度だってないし、今後もそういう方向性で何かしていこうとはまるで考えていない。なぜか。

そのことの社会学的根拠なんていうのはこの際どうでもいい(知りたい人は『ぷらっとほーむ通信』でも読んでください)。実のところ、ぼくには「居場所」という空間づくりにあたって、密かにモデルにしてきた場がある。残念ながら今はもう存在していないので、自分の記憶の中にしかない場所なのだが、それは大学時代の「学生研究室」なのだ。ぼくが所属していたのは、文学科の歴史学コースで、コースごとに学生に対して自由に使用できる部屋が一室ずつ与えられていた。歴史学コースはさらに幾つかの専攻にわかれ、専攻ごとに時間割もカリキュラムもばらばらなのだが、男女10名ほどが研究室にひんぱんに出入りしていた。もちろんよほどの用事がない限り、教員はそこには入ってこない。

研究室にやってきたからといって、何か特別なことがあるわけではない。そこには、授業の合間の時間つぶしに何人かで駄弁っていたり、予習が間に合わずあわてて辞書を引いている者がいたり、たまたま何らかの話題で意味もなく数人であつく議論していたり、研究室ノートに落書きをしている者がいたり(これはぼくだ)するだけ。だが、ぼくらは時間があればそこをたまり場にし、「何もない」という無意味な時間をひたすら共にした。それぞれ、講義やら調べ物やらで教室や図書館に出かけても、それが終われば、必ず戻ってきて一息つける場所。そこでやる気を回復して、再びどこかへ旅立っていくような、そんな拠点(ホームベース)だった。

現在の自分を育ててくれたもの、自分の眼を開かせてくれた場というのは、まさにそうした空間だったのだと、今ははっきり思う。同じ学部生の仲間同士ゆえに、上下の役割関係はその「研究室」にはなかったし、そもそもその空間への出入り自体が完全に任意だった。そこで何かを行う場合も基本的に自分たちのイニシアチヴで話し合い、コストを負担し、役割分担のもとに実行した。「ただ乗り」がなかったとはいえないが(みなさんごめんなさい)、それでも互いの長所をそれぞれが活かして、なんとかうまくやっていたのだ。

ちょっと探せば、そんな空間はいくらでも見つかるだろう。大学を卒業したばかりの頃は、そんな程度にしか考えておらず、自分の中に残る寂しさを、未練がましい感傷と笑ってみたりもした。今なら決して笑わないだろう。就職して学校で働くようになってようやく、ぼくはかつて存在していた「研究室」という空間のかけがえのなさを改めて認識するようになった。上下関係や役割期待から解放された場所、対等な仲間と意味もないことで笑い合える場所、未熟であることや試行錯誤が許される場所、そしてみんなばらばらであっても共にあることが可能である場所。そうした空間の、なんと限られていることか!

学校を辞めることへ自分を決意させたもの。それは、「研究室」的な空間をあきらめきれなかった自分の中の執着なのだと今は思う。フリースペース(居場所)づくりへと今の自分を動機づけているのもそうだし、『ほんきこ。』という活動へと自分を誘惑しているものもそう。人は、自由な空間と対等な仲間さえあれば、動機づけも欲望も、そして自信さえも、手に入れることができるのだと思う。カウンセラーや教師なんていなくとも。かつての自分が、そして自分たちがそうであったように。今、現にそうであるように。

「研究室」の仲間たちとは、毎年夏に「同窓会」と称して会っている。仕事や生活の環境は当時とは随分変わってしまっているくせに、それでも「お互い変わらないね」なんて言い合うのは、自分たちのこの「関係性」が今後もずっと続きますように、という祈りのようなものなのだろう。それでもぼくたちは、「研究室」のあの頃を忘却していくに違いない。自分たちも気付かないほどにゆっくりと、そして確実に。ぼくはそれに抗っていこうと思う。新しい「居場所」を創りだすこと。かつてぼくに居場所を与えてくれた彼(女)らへの、それがせめてもの恩返しになればいい。*1

*1:『できれば月刊 ほんきこ。』No.12(2004年7月号)