《フリーター》の誕生?


最近フリーターが増加していると言われる。その数はおよそ200万人以上にものぼるという。この「フリーター増加」を「社会問題」と捉え、「問題」の「解決」を志向する言説/実践が各所で頻繁に見られるようになってきた。「問題」とされるものの原因が、個人に帰されるにせよ(フリーター化は若者の怠けだ!)、社会に帰されるにせよ(フリーター化は社会的な構造変動の副産物だ!)、両者に共通しているのはひとつの「社会問題」として「フリーター」なる層を社会的に構成し「介入」していこうという、極めて政治的な無意識がそこに働いているということである。では、そこで構成されつつある「フリーター」とは、いったい何であるのか。そしてその構築により、いったい如何なる状況が用意されようとしているのか。

まずは、各所で当たり前のように流通している「フリーター」なる語彙の定義について確認しておこう。最初に言えるのは「フリーター」という語の意味の曖昧さである。『労働白書』(2000年)によれば「年齢は15〜34歳と限定し、①現在就業している者については勤め先における呼称が「アルバイト」または「パート」である雇用者で男性については継続就業年数が1〜5年未満の者、女性については未婚で仕事を主にしている者とし、②現在無業の者については家事も通学もしておらず「アルバイト・パート」の仕事を希望する者」と定義されている。つまり簡単に言ってしまえば、「15〜34歳の、正社員でも主婦でも学生でもない若者」というのが「フリーター」なのである。

では、この「正社員でも主婦でも学生でもない」とは、いったい何を意味しているのか。正社員/主婦/学生に共通しているのは、社会的な位置づけや役割が、それぞれ明確であるという点である。少なくともそのうちのいずれかの範疇に属している限り、その社会的な役割=意味が目に見える形で保証されているので、問題は生じない(正社員ならば「市場労働」、主婦ならば「家事労働」、学生ならば「学業」がその役割として期待されている)。ではそうしたわかりやすい役割に属さない者はどうするか。「フリーター」というカテゴリーはまさにこの局面において誕生する。つまり「フリーター」とは、何らかの積極的な定義づけなのではなくある規範的な状態からの逸脱状況を名指すための消極的な定義づけなのだということである。当然、そのカテゴリー内には若年の多様なありかたが含まれることとなる。

では、そうした「フリーター」という語彙の定義や使用の中で密かに前提とされているある規範的な考えかたというのは、いったいどのようなものなのか。そこで前提とされているのは「15〜34歳の若者は、正社員/主婦/学生のいずれかであるべきであり、それ以外のこと(=フリーター)は許されない!」という発想だ。ここで規範化されている正社員(夫)、専業主婦(妻)、学生(子ども)の三者を合わせると、「核家族」(より正確を期すなら「郊外中流核家族」)となる。この「核家族」とは、戦後日本の郊外化の流れの中で誕生した比較的新しい家族の形であり、その彼(彼女)らが掲げたライフコース規範を一言で表現すれば「いい学校、いい会社、いい人生」となる。

この「郊外中流核家族」の規範は、男子に向けては「いい学校へ進学し、いい会社へ就職せよ。それが良き人生の条件である」ということを、女子に向けては「いい学校へ進学し、いい会社へ就職し、いい会社員と結婚せよ、それが良き人生の条件である」ということを、それぞれに言わんとしていた。とすれば、正社員でも専業主婦でもないポジションを「逸脱」として名指す「フリーター」とはそうした規範的な語彙とワンセットの、コインの表裏の関係にある言葉なのだと言えるだろう。つまり、「フリーター」なる語彙のネガティヴなニュアンスを受け入れそれを用いる限り、私たちはその裏面に張り付いた「いい学校、いい会社、いい人生」という単線的で画一的なライフコース規範をも密かに自らの内部に取り込んでしまうことになる。だとすれば、安易に「フリーター」を鵜呑みにするわけにはいかない。

そもそも現在、こうしたライフコース規範は果たしてどれだけ有効だと言えるのだろうか。マクロな視点で言えば、現在は「構造改革」の名のもとに官民一体となって雇用労働の流動化が推し進められ、正社員/専業主婦/子どもという三位一体は(一部の階層を除いては)成立しがたくなっているし、ミクロな視点で言っても、高度経済成長(豊かになろう!)の達成=「大きな物語」の失墜に起因する価値観の多様化により、画一的で単線的なライフコース・モデルの求心力は失われてしまっているため、そもそも「いい学校、いい会社、いい人生」への動機付けが得られない。つまりは、もう時代遅れなのだ。

社会が成熟し人々の生活様式や働きかたが多様化しつつある現在、「郊外中流核家族」の規範は、私たちの複雑で多様な生きかたや働きかたとの間に齟齬をきたし始めている。「フリーター問題」と言うときの真の問題点は、その語彙(シニフィアン)と現実(シニフィエ)との過剰なズレにこそあると、私は思う。「フリーター」とされる若者たちの置かれた現実は極めて多様だ。「フリーター」を「社会問題」として構築する私たちの眼差しは、そうした多様さを「フリーター」というパッケージでのっぺりと糊塗し、そこにあった多彩さを見えなくしてしまう。これは、「フリーター」を「怠け」として叱咤しようとする立場においても、「フリーター」を「構造改革」の被害者として救済しようとする立場においても、共通している。

だが、上で述べた通り「フリーター」の現実は多様だ。その多様さの中には、従来の企業社会や雇用形態、労働文化などに対する異議申立や批判的な問題提起といった契機も、当然ながら含まれている。とすれば、「フリーター」の叱咤/救済という「介入」は、より良い社会を構想していくためのそうした貴重な契機を無駄にする「偽解決」にすぎない。両者に共通するのは「若年に自身で社会を変えていく力などない。ゆえに中高年が介入すべし」とでも言えるような想定である。だが、果たしてそうだろうか。確かに「いい学校、いい会社、いい人生」のレールから降りてフリーター化する若者を見れば、そうも言いたくなるのかも知れない。だが彼(彼女)らは、システムから「降りる」というまさにそのことによって、自らの属する社会に対して異議申し立てを行っている。とすれば、その抗議を受けた側にはそれに対し社会的に「応答」する責任、「若年が降りない社会を設計する」という応答責任があるはずだ。

しかも、若年のイニシアチヴは「降りる」という消極的な異議申し立てに限らない。彼(彼女)たちの一部は「降り」た先で何らかのオルタナティヴな価値を選択し、追求している。NGOやNPO社会起業家フリーエージェント、ワーカーズ・コレクティヴといった、多様な働きかたが、その彼(彼女)らによって、各所で模索され始めてもいるのだ。そうした社会的な試行錯誤の経験は、私たちの社会が、将来を構想するにあたって参考にできる第一級の生きたサンプルとなるだろう。とすればまず必要なのは、若年の多様かつ複雑な試行錯誤の現実を、その多様さや複雑さのままに把握し位置づけていくことだ。つまりは、「フリーター」にかわる具体的な語彙や概念を、個別のケースごとに想像=創造していくこと。そうした語彙や概念の豊かさにこそ、私は今後も照準していきたいと思う。3月に上梓されるインタビュー集『これが わたしの、いきるみち。』(編集・発行/ぷらっとほーむ)は、そうした取り組みの端緒である。ぜひ、手にとってみてほしい。*1

*1:『できれば月刊 ほんきこ。』No.10(2004年4・5月号)