私たちのなかの壊れていない部分


先日、福島県内の2つのフリースクール/フリースペースと合同で行っているスタッフ研修会に参加するために、猪苗代まで行ってきた。2年前からそれぞれの自発性を前提に行ってきた自主研修会で、今回が4回目になる。わたし個人としては、フリースペースSORAでスタッフをしていた時代から、ぷらっとほーむの準備期、そしてそのスタッフと、参加するたびに微妙に立ち位置や背景が変わっているので、そのたびごとにいろんな視点や認識を獲得することができる、大変有意義な研修会という位置づけで捉えている。だが、正直言うと今回の参加は、当初の私(たち)にとって相当な重荷だった。
個人的な話題で恐縮だが、情報誌の編集作業が最終行程に入ったあたりから、それ以降の目標や先行きが不透明であるがゆえの不安と恐怖のなか、少しずつ鬱の波に飲み込まれていく自分がいた。完成した情報誌が思わぬ好評で迎えられたことも自分のペースを見失ってしまった一因だった。何より、1年間、無我夢中で走りつづけてきた緊張の糸がどこかでフッと緩んで、気が抜けてしまっていたのだろう。もちろんこれは私だけのことではなかった。そう、私たちは明らかに疲弊していた。そんな時期に、外に出て誰かと関わることはいつも以上に自分を消耗してしまう。気持ちが乗らなかったのはそのためだ。
だが、結論的に言うと私たちは、改めてこの研修会の意義を再認識することになる。そこで目にしたある光景がきっかけだ。それは、あるフリースペースのスタッフの「変貌」した姿だ。おこがましい言いかたになるが、それは「成長」と呼びうる何かだと思う。とにかく私たちは、一年ぶりに再会したその人の「変貌」ぶりに、ただただ圧倒されてしまった。だが圧倒されたのは、それだけが原因ではない。その人と他のスタッフとの間に、濃密な信頼関係が時折垣間見えたためだ。長い時間をかけて彼(女)らが積み重ねてきたであろうそれは、私たちが居場所づくりで最も重視していることそのものだった。
以前もどこかで書いたが、居場所の要件を私たちは次のように考える。第一にそれは、ありのままの自分でいられること。第二に、自分の関与する余地があること。その人の存在をしっかり尊重し、たとえ何か失敗しても未熟でも周囲がそれを温かく見守ってくれる環境であること。失敗や挫折をも含めた試行錯誤をきちんと保障してくれること。そういう環境でこそ、人はよく自らを成長させ得るものだし、人と人の信頼関係もまた成立し得るものだと私は思う。ぷらっとほーむが実現しようと模索しているのも、まさにそういう環境の構築なのだ。
その意味で、私たちは予想もしなかったところで、自分たち自身の原点ともいうべき価値の顕現を目の当たりにできたのだと思う。そうだ、人は、そして人と人の関係はこんなふうに変わりうるものなのだった。それを信じ、そのための環境を信じるところから私たちの活動はスタートしたのだった。私たちは、その意志さえあるなら、どんなふうにでも変わっていけるのだった。忙しさのなか、どこかで忘れてしまっていたのかもしれない。福島からの帰り道の車中、私たちはひたすら喋り合った。同じ時間や空間をともにし、同じ問題に悩んできた仲間として、再びともに歩んでいくための共通前提を確認するために、その原点に立ち返るために。ぷらっとほーむの、私たちの2年目が、はじまろうとしている。*1

*1:『ぷらっとほーむ通信』012号(2004年04号)