「動機づけ」への照準。


ぷらっとほーむにおけるスタッフの、子ども・若者たちとの関わりかたとは、いったいどのようなものであるか。既に各所で断片的に語ってきたことではあるが、このあたりでもう一度改めてまとめておきたい。結論的に言ってしまうが、私たちが活動の目的としてとりわけ焦点をあてているのは、「動機づけの創出/回復」ということである。「動機づけの創出/回復」に照準するとは、学校教師が行うような「指導」でも、こころの専門家(精神科医、カウンセラー)が行うような「治療」でも、福祉職員が行うような「支援」でもないということである。では、動機づけに照準するとはどういうことか。

教育/臨床/福祉などが無意識に前提としている(ように思われる)のは、対象となる子ども・若者たち個々の側に動機づけ(学びたい/治りたい/自立したいという動機)があらかじめ存在する(あるいは存在してしかるべきだ)という想定である。「子どもであれば勉強して当然」「若者であれば仕事して当然」「人間であれば健康で当然」といった言説がそうだ。だがそうした想定は、実のところ、当の子ども・若者たちにしてみれば、既に相当に敷居が高い可能性がある。「子ども」と「勉強」、「若者」と「仕事」等をつなぐ自明性は、成熟社会においてはもはや形骸化し、無関連化してしまっているためだ。

若年世代における動機づけの初期値は既に相当に低い。これが、学校の内外で子ども・若者たちと関わってきての正直な実感だ。とはいえ、「最近の子ども・若者はダメだ」的なことを言いたいわけでは全くない。「動機づけの貧窮」は、70年代以降に生まれた私たちの世代、物的欠乏を克服した後の、国民的に合意された目標を喪失した社会のなかに生まれ育った私たちの世代にとっては、宿命のようなものだ。とすれば、その初期条件を踏まえたうえで、私たちの世代が幸福であるための、私たちの世代に固有の方法=「動機づけの回復/創出」のしくみというものを創りだしていく必要があると、私たちは考える。

以上のような想いから、ぷらっとほーむでは「動機づけの創出/回復」に焦点をあてたコミュニケーションをこそ心がけているし、そうした動機づけがうまれやすいような敷居の低い空間づくりに留意している。簡単にいえばそれは、①子ども・若者それぞれの個性や速度を受容・承認すること、そしてまた②彼/彼女らの関与可能な余地を、多様にかつ執拗に現前させることだ。前者は、新たな動機の獲得に必要な最低限度の自己信頼の支え(私がいてもいいんだ、という認識)となるものであるし、後者は、新たな動機へと一歩を踏み出す際の敷居をさげる(何だってありだ、という認識)ことを意味する。

注意したいのは、それがスタッフから子ども・若者たちへの一方通行的な動機の付与を意味しないということだ。動機づけとは、生への欲望そのもの。欲望を他者に外部から強制注入することなど不可能なのは自明だ。そもそも「私たちが欲望する」とは、「他者が欲望する」ことへの欲望であり、模倣の欲望である。誰も欲さないものを、私たちは欲さない。とすれば、まず私たちに可能なのは、あくまで「自分自身の動機や欲望」をさらけだすことだけだ――ただし、それを唯一の「正しさ」として押し付けることなく。大人という仮面、専門家という仮構をあえてはずし、対等な目線での関わりをこそ強調するのはそのためである。他者に動機や欲望を享受してほしいのなら、まずは自分が積極的に自己の動機や欲望を享受するしかない。これこそが、私たちに固有の方法なのだ。*1

*1:『ぷらっとほーむ通信』008号(2003年12月)