「自立」をめぐる思考停止


たまたま最近、「不登校」「ひきこもり」など、若年世代の「問題」についての(主に支援者サイドの)シンポジウムや講座で話したり、対話したりする機会が重なり、「不登校」「ひきこもり」というものに対する周囲のまなざしのありかたをめぐっていろいろ考えさせられることが多かった。そこで今回は、この「不登校」「ひきこもり」というカテゴリーについて改めて考えてみたい。この「不登校」「ひきこもり」と必ずといっていいほどセットで語られるのが、「自立」という言葉だ。例えばそれは、「自立できない不登校・ひきこもりの子ども・若者たち。ゆえに自立に向けて指導/支援せよ」というもの。

そんな自明なこと今さら何を疑うか、という声もあろう。しかし、注意せよ。ここには幾つかの点で、思考停止にいたる陥穽が持ち込まれている。それは、「不登校・ひきこもり」というカテゴリーを「自立できない」と無前提・無条件につないでしまうという思考停止。そう語るとき、私たちはその反面で「登校・社会参加」している子ども・若者の姿を想定し、そうしたカテゴリーを「自立できている」と無前提・無条件につないでしまってはいないだろうか。そしてまた、そうした二分割(不登校/登校、ひきこもり/社会参加)の中の「自立できている」側に、自らを安易に定位してしまっていないだろうか。

私たちがむしろ問題提起したいのはそこだ。「不登校・ひきこもり」として語られる状態像のほとんどはある種の「理念型」であり、「不登校・ひきこもり」とされる個々のケースのありようは、一言でカヴァーできるほど単純でもわかり易くもない。なのに私たちはつい、それらを安直に一つのカテゴリーでくくり、位置づけ、そしてそこに「自立できない人たち」というレッテルを付与する。その行為によって、私たちはいとも簡単に自分たちを「自立できている」と位置づけることができてしまう。不登校・ひきこもりの多様さは、登校・社会参加の多様さと全く同じ。なのに、それが覆い隠されてしまうわけだ。

ここまであえて触れないできたが、そもそも何をもって「自立」と捉えるか、「自立」というカテゴリーそれ自体が多様に定義可能(私たちはそれを「成熟社会を生きるために必要な、前提の異なる他者とのコミュニケーション能力あるいは動機」と定義する。詳しくは前号を参照)。こうした「自立」イメージの多様さは、社会が成熟し価値や規範が多様化したことと連関する。つまり、それだけ「自立」というものが困難な社会を我々は生きているわけだ。子ども然り、大人然り。「自立できていない」のは、「不登校・ひきこもり」の「子ども・若者」だけではない。「大人」でさえ、「自立」は相当に困難なのだ。

そうであればこそ、ぷらっとほーむでは、「子ども/大人」「不登校/登校」「ひきこもり/社会参加」「自立不可/自立可能」という一連の二分法を回避したいと考える。「自立」が相当に困難な社会をともに生きていかねばならないという点で、私たちはみな対等である。「自立している」人たちが「自立できない」人たちを「指導」「治療」「支援」を通じて「自立」という「唯一の答え」へと導くというのではなく、お互いに「自立」の困難を抱えた仲間どうしが試行錯誤を重ねながら、それぞれの「自立」へ向かってともに学び合い、補い合うということ。そのためにはまず、私たちの自由な交流や交換を隔てる硬直したカテゴリーの束を、ゆっくり解きほぐしていかねばならない。これこそ、私たちの課題である。*1

*1:『ぷらっとほーむ通信』007号(2003年11月)