フリースペースと社会性


私たちが行っているのは、何らかの生きづらさを抱えた子ども・若者たちが、安心して過ごし成長していくために必要な居場所(フリースペース)づくだ。だが、その活動に対してしばしば次のような批判を受ける。すなわち、「居場所(フリースペース/フリースクール)では社会性が身につかない。ゆえに(不登校・ひきこもり等の)子ども・若者を、まずは学校に復帰させるべきだ」というもの。逆に問いたい。その「社会性なるもの」は、学校のような大規模集団への特権的所属のなかでしか体得し得ないものなのだろうか。答えは否。少なくとも、私たちはそういう前提にはたたない。

そもそも「社会性」とは何であるか。「社会性」とはすなわち、社会生活に必要な性質・能力のこと。では、社会生活に必要な性質・能力とは何であるか。それを学校言説は次のように解する。すなわち、①先生(年長者)の言うことをきちんと聞けること、②みんな(同年代)と同じことができるということ。確かにこれらは、戦後日本という社会空間において、会社という社会を生きていくうえでは欠かせない資質・能力であった。それは否定しない。だが待て。インフラが充実し、個々の多様な生が可能となった現代、社会(社会生活)は、会社(会社生活)のみを意味するわけではなくなった。

物的欠乏が消滅した成熟社会にあっては、ライフスタイルやライフコースそのものが個々の欲望のありように応じて多様化。「幸せのかたち」も人それぞれということになった。そうした不透明な社会における「社会性」とは、決して他人の言うことを鵜呑みにすることでも、みんなと同じ速度で進むことでもない。むしろ逆だ。自分に固有の「幸せ」のためには、自分の欲望のありようを知るより他はないし、自分の欲望を見極めるためには、(自己を見つめるための鏡としての)他者とのコミュニケーションが不可欠だ。つまり成熟社会の「社会性」とは、前提の異なる他者とのコミュニケーション能力を意味する。

「年長者にしたがい、同年代と協調せよ」という学校的価値が、こうした前提の異なる他者とのコミュニケーション能力の養成にとって、阻害要因にすらなってしまうことは自明だろう。では、この成熟社会に必要な「社会性」を体得するにはどうすればよいのか。実はそこに照準しているのが、居場所づくりなのである。とは言っても、それを身につけるための「指導」の体系(メニューやプログラム)が準備されているわけではない。そうではなく、フリースペースという環境そのものが、そうした他者とのコミュニケーションを促進するしくみになっており、その結果、「社会性」獲得が可能となるのである。

コミュニケーション促進の環境要因とは何であるか。第一にそれは、フリースペースが、多様な年齢層/背景の子ども・若者たちから成る「異年齢集団」であるという点だ。つまり、前提の異なる他者との出会いの機会が数多く存在するということだ。第二にそれは、フリースペースが利用者の自由意志に基づいた選択共同体であるため、他者とのコミュニケーションを試行錯誤する際の敷居が低いという点にある。「いつ来てもいつ帰ってもOK、参加するも離脱するも自由」であるがゆえに、誰からも強制されることなく自分のペースで試行錯誤できるということである。そこにはまた、自ら望んで参入したがゆえのコミュニケーションへの強い動機づけも存在する。かくして、前提の異なる他者との頻繁な関わりを通じて「社会性」が体得されるという理路。これこそが、居場所の積極的価値なのだ。*1

*1:『ぷらっとほーむ通信』006号(2003年10月)