赤坂憲雄 『婆のいざない』

婆のいざない―地域学へ

婆のいざない―地域学へ

「ひとつの日本」から「いくつもの日本」へ、さらにはいくつものアジアへと、列島の新たな民族史的風景を切り開く、そのための視座を「東北」にすえた知の運動=「東北学」。本書は、その提唱者である著者(東北芸術工科大学・東北文化研究センター所長)が運動の新たなステージの幕開けを静かに告げる宣誓の書である。
当初は講演集として編まれるはずだったという本書。そこには、東北の原風景としての「稲作以前」、宮沢賢治で読む東北、菅江真澄イザベラ・バードが見た東北、東北=狩猟文化論、東北の被差別部落(不在)問題といったお馴染みの話題が並んでおり、「東北学」の全体像を俯瞰するのにちょうどよい。だが、著者自身が、加筆するうちに「講演集ではない。かといって論文集でもない。とても奇妙は肌合いの本になった」と語る本書には、「東北学」の著者には見られなかったような、ある「転回」の軌跡があちこちに見られる。しかし、その感触は決して未知のものではない。
デビュー作『異人論序説』とそれに続く『排除の現象学』。八〇年代のニューアカ・ブームの最中に書かれたそれらは、「異人・境界・供犠」といった問題系をテーマとし、とりわけ後者はそうした道具立てでもって同時代の世相や社会現象を分析したものだ。だがその末尾で著者は、唐突に「同時代分析はこれで終わり」と「転回」を宣言。以後、「柳田國男の発生」と題した柳田「一国民俗学」の起源をめぐる批判的分析や、山形に拠点を移しての聞き歩きの旅が続いたのであった。
本書の「転回」とは、「東北」との出会いを経ての「異人・境界・供犠」問題への回帰、同時代分析への回帰を意味する。その証に本書には、著者の民俗学的な語りと並行・交雑する形で同時代分析の語りが頻出する。めまいにも似た奇妙な読後感はそこに由来しよう。実を言うと筆者は、「東北学」の同時代分析への禁欲的姿勢にどこか物足りなさを感じてきた者の一人だ。だが、それもどうやら終わりらしい。「東北学」から「地域学」へ。「東北学」を私たち自身のもとに受肉させる新たなステージが、ここから始まる。*1

*1:山形新聞』2010年5月16日 掲載