「戦争ゼミ」ができるまで。

■9月より、「戦争ゼミ:戦場に送られるかもしれないわたしたちのための、戦争入門」企画が本格的に始まった(平成20年度山形市市民活動支援補助金を受け実施)。これは、毎週土曜の夜、「ぷらほ」にて、若年が主体の「戦争と平和」をめぐる自主ゼミを開催するというもので、「戦争と平和」関連の作品とその紹介原稿を参加者各自が持ち寄り、それをもとに議論を重ね、理解を深めていこうというものである。紹介原稿を一冊にまとめた冊子を発行する予定もある。
■もともとこの企画は、6月に実施したドキュメンタリー映画ひめゆり自主上映の継続企画として実施しているものだ。映画上映に際し、わたしたちは、「ただの自主上映会で終わらせてはつまらない。せっかくだから、これを機に『ひめゆり』の背景である沖縄戦や当時の日本について学んでみよう」ということで、5回にわたる自主学習会を開催。これが予想以上に好評で、『ひめゆり』上映会終了後もぜひ続けたいとの要望から、継続企画が実現したのである。
■ところで、ゼミの醍醐味は、参加者1人ひとりが自主的かつ主体的に学ぶ点にある。もちろんそこには相応の負担も伴う。「戦争ゼミ」においても、参加者各自は「戦争と平和」に関連したゼミ課題を設定。それぞれが設定テーマに関連する文献を探し、じっくり読み込み、その書評を書き、ゼミの場でみんなに報告せねばならない。自分の報告でない場合は、報告者への質問や批判を考え、発言する必要がある。それは、話題を提供してくれた人への最低限の礼儀である。
■同じく「参加型の学び」として説明される「ゼミ」と「ワークショップ」の、そこが大きな違いかもしれない。参加者に前提を求めず、誰もが身一つで簡単に学べる(よう周到に環境デザインが施された)「ワークショップ」に対し、「ゼミ」の方では、上で述べたように、テーマに関連する文献検索やその購読、レジュメ作成などの事前準備と当日のゼミ報告という、過大なノルマが参加者に課される。実際やってみるとわかるが、これは本当にたいへんな仕事である。
■そんなコストを引き受けてまで、どうして彼(女)らはゼミに参加し続けるのだろうか(大学みたいに単位が出るわけでもないのに)。それは、そうしてまで身につけたい「何か」があるためだ。「新しい言葉」や「新しい自分」を、彼(女)ら自身が欲望しているからだ。同じように、未知の自分に出会いたい人、新しい自分をつくりたい人、自分の狭い世界を広げたい人など、希望者はどなたでも、ぜひ当該ゼミ(10月より毎週金曜夜開催)に参加してほしい。*1

*1:『ぷらっとほーむ通信』066号(2008年10月)