高校受験社会・歴史(3)近世の日本 その2

江戸幕府幕藩体制: 豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦い(1600)にて豊臣派を破った徳川家康が実権を握り、征夷大将軍となって江戸幕府を開府(1603)。日本全体の約1/4を幕府が直轄領(天領+旗本領)として、残り3/4を、幕府と主従関係にある大名たちが藩として統治する(幕藩体制)。実権を握ったとはいえ、幕府の直轄領は全国の約1/4。幕府にとって最大の脅威は、いったんは幕府にしたがった各地の大名たちが連合して幕府に反抗すること。これに対処するために、江戸幕府はさまざまな大名統制策を講じることになる。
江戸幕府の大名統制: 幕藩体制の一環として、大名を分類して格付け(親藩>譜代>外様)し、ランクが上の者は要所、下の者は辺境等に配置するという分断統治を行う。また、大名統制を目的とした武家諸法度(1615)を制定。のちに、大名の経済力を削ぎ落とすことを目的とした参勤交代制度が付け加えられる。
江戸幕府の身分統制: 武士(士)、百姓(農)、職人(工)、商人(商)、えた・ひにんからなる身分制度士農工商)をつくり、身分ごとに人びとの生きかたを統制。とりわけ厳しい農民統制が行われる(慶安の御触書)。これは、幕藩体制の財政基盤が(農民たちが生産し納入する)年貢米に置かれていたため。
江戸幕府外交政策: 当初は対外貿易(朱印船貿易)が活況で、東南アジア各地に日本町ができる。が、その過程で流入したキリスト教を媒介として九州の農民たちが島原・天草一揆(1637)をおこす。これがきっかけとなり、幕府は禁教徹底のため、対外貿易を制限・管理するようになる(鎖国)。対外貿易は、オランダと中国(清)に限り、長崎の出島において幕府の管理下で行われるようになる。この他、対馬藩が朝鮮国との外交窓口になっていたり(朝鮮通信使)、薩摩藩琉球王国を侵略して服属させていたり、松前藩蝦夷地のアイヌと交易していたりと、4つの窓口が存在していた。
■江戸時代の産業発展: 幕藩体制鎖国政策によって実現した安定的な平和のもと、国内産業が発展していく。新田開発が進んだことに加え、農具改良(千歯こき、備中ぐわなど)や肥料開発(干鰯)が行われ、農業生産力がUP。余剰生産物の増大によって商業が活発化し、そうした商品の集積や取引の場として、三都(江戸・大阪・京都)のような大都市が発達。とりわけ大阪は「天下の台所」とよばれ、諸藩が蔵屋敷(米・特産物の販売センター)をおく商都として発展した。またそうした都市と都市を結ぶ交通網(陸路:五街道、海路:東廻り航路+西廻り航路)が各地で整えられていった。