学び、考える機会からの疎外:無視と抑圧

■おかげさまで「ぷらほ」も今月で5周年を迎える。若い世代が自由に集い、交流できるフリースペースの提供を中心に運営されてきた「ぷらほ」だが、今年度より、若い世代が何かを学んだり考えたりする機会や場の提供にも同じように力を入れていくことになった。これは、この一年間、その方面に関しての試験的な事業をいくつか実施して、改めてその必要性を痛感したためである。わたしたち若い世代は、気づかぬうちに、学び、考える機会から恒常的に疎外されている。
■「学び、考える機会からの疎外」とはどういうことか。例えば、あなたが日常生活の中でふと何か――何でもよい。例えば、ガソリン価格はなぜ急騰したのか、なぜ沖縄に米軍基地があるのか、なぜ右翼は『靖国』上映映画館を脅迫するのか等々――に違和感を覚えたとしよう。それを口にしたとして、その疑問はどこにも着地しない。「そんなことも知らないの?」「それはまた後で、今は受験に専念しなさい」「えーあたしもしらなーい」、帰ってくるのはそんな反応ばかりだ。
■無反応であったりウケなかったりすることを継続するのはつらい。そんな環境にあって、いつの間にかわたしたちは、素朴な疑問や違和感を抑圧する術を身につける。それが大人になることだと錯覚しながら。でも、それは全然違うとわたしは思う。わたしたち一人一人が日常の中で感じる違和感や疑問は、わたしたちがこの社会の問題点や改善点を知り、それらを解消していくための貴重なヒントになるものである。無形の社会資源が無為に廃棄されている、と考えるべきだ。
■この、気が遠くなるほどの「無駄」は、どうすれば回避できるのか。はじめに言えること、そして同時に、誰にでも着手可能なことは、誰かの口にした素朴な「なぜ?」をきちんと聴くこと、受け止めることである。「そんなことも知らないの?」と言いたくなったら、振り返って考えてみよう。果たして自分はそれをきちんと知っていると言えるのかと。そう言い得るかどうかは、あなたがそれを誰かに説明できるかどうかにかかっている。ぜひ目の前の相手に試してみるといい。
■あるいは、その「なぜ?」があなたにとっても未知のものだったとする。その場合は、「そんなのしらなーい」ではなく、「どうしてだろうね」と共に考え始めればよい。共に学ぶというコミュニケーションの回路が、そこから開かれていくはずだ。とはいうものの、こうした方法が有効なのは、初歩的な「疎外」である。素朴な疑問のやりとりのその先に、また次の「疎外」が姿を現す。「考える」ことのしかたを知ら(されてい)ない、という問題である。つづく。*1

*1:『ぷらっとほーむ通信』061号(2008年5月)