「ボランティアする側」と「される側」――「居場所」運営者から見た「ボランティア」


1.はじめに
発題者はこれまで、山形市内にて、2つの異なる「居場所づくり」のNPO活動に携わってきた。すなわち、①「不登校の子どもたちの居場所づくり」(2001−02年度)、また、②「(不登校・ひきこもり等を含む)子ども・若者の居場所づくり」(2003−06年度)として「フリースペース」を開設し、そこに通ってくる若い世代の人びとと関わり合うというNPO活動を行ってきた。
当初、①の「居場所」では、「ボランティア・スタッフ」希望者を受け入れ、彼(女)らの協力のもとに支援活動を展開してきたが、現在活動している②の「居場所」では、そういった「ボランティア」を受け入れていない。活動の過程で、「ボランティア」という語の含意と、「居場所づくり」活動の側の自己認識との間に、大きな齟齬が生じてしまったためである。このズレが何であるのかを見ていくことで、「ボランティア」というものが何を前提に成立しているのか、あるいはそれが「居場所づくり」というNPO活動の現場においてどのように機能しているのか、を明らかにしたい。


2.「不登校の子どもたちの居場所づくり」における「ボランティア」
(1)「不登校の子どもたちの居場所づくり」(2001−02年度)概要 
●支援活動の自己定義
①の「居場所づくり」では、「不登校の子どもたち」*1 を支援対象にすえた「フリースペース」を開設・運営してきた*2 。「不登校の子どもたち」を社会的弱者と捉え、そうした弱者のための「受け皿」あるいは「福祉施設」として*3 、しかもそれも「非専門家の手によるもの」として*4 、自分たちの活動を意味づけしていた。

●支援活動の具体像
毎週月曜−金曜日の10時から16時まで「フリースペース」を開所し、そこに「専従スタッフ」1−2名、1−3名ほどの「ボランティア・スタッフ」が常在し、通ってきた「不登校の子どもたち」の求めに応じて、話し相手や遊び相手になるなど、さまざまな関わりを行った。「フリースペース」の「利用料」は、「不登校の子ども」1人につき、30,000円/1ヶ月。


(2)「不登校の子どもたちの居場所づくり」における「ボランティア」

●「ボランティア・スタッフ」の定義
「ボランティア・スタッフ」の要件は、「非専門家による/不登校の子どもたちの支援」という支援活動の自己定義からすると、理論上は、「不登校の子ども」でさえなければ、誰にでも(専門家でなくとも)可能、ということを意味した。
しかしながら、この「非専門家=ボランティア」による支援には、ある問題がはらまれていた。

●「非専門家=ボランティア」が「援助する側」に立ちうる根拠とは何か
「ボランティア」と「専門職」を比べてみれば、問題は見えやすい。例えば、指導・治療・支援の専門職の者が構成する援助関係であれば、援助者/被援助者の間にある「非対称性」や「上下関係」は正当性をもって受け容れられうる*5 。しかしながら、「ボランティア」が援助関係を構成し、援助者/被援助者という援助関係において「援助者」という上位(強者)の地位を占めるとき、当然そこには「ボランティアされる側」からの問い――わたしを「援助する側」のあなたとはいったい「誰」なのか、いったいどのような正当性のもとで、あなたはわたしを劣位(弱者)の地位へと位置づけ「援助される側」として扱うのか――が突きつけられよう。
では、①の「居場所づくり」では、何を根拠に「ボランティア」による援助を正当化していたのか。①の「居場所づくり」では、「専門性」という論拠を自ら封じていたために、最終的に、援助者/被援助者の「線引き」問題を、「子ども/大人」という区分けを導入することで正当化していた。そこにあったのは、成熟した「大人」である「ボランティア・スタッフ」が、未熟な「不登校の子どもたち」を援助する、という構図である。

●「ボランティア」というフリーライダー
しかしながら、「子ども/大人」なる区分けには、客観的な基準はない。すると、「ボランティア」希望者として集まった人びとの中には、自らを「もと不登校」「ひきこもり」などと自称する若者たち――「不登校の子ども」ではないが、「居場所を求めている」という点で、彼(女)らと共通の課題を抱えている、つまり「支援される側」に位置づけされることがより適切であるような人びと――も含みこまれることになる。それでも、誰の目にも不都合ということがない限り、①の「居場所」では、彼(女)らを可能な限り受け入れながら、活動を組織化していった *6
こうした対処が意味していたのは、「不登校の子どもたち」の費用負担のもと、正規の「利用者」以外の人びとが、「ボランティア・スタッフ」という名目で、「居場所」にフリーライド(タダ乗り)するという構図 *7である。公平性という点で、当然これは看過できない。
これがひとつのきっかけとなり、支援者/被支援者の「線引き」のありかたを再考し、「居場所のなさ」に苦しむ人びとの実態に即した支援対象のカテゴリーを再設定する社会的な必要性を痛感した。この問題意識のもとで、発題者は、①の「居場所づくり」を離脱し、②の「居場所づくり」の活動へと進んでいくことになる。


3.「子ども・若者の居場所づくり」における「ボランティア」
(1)「子ども・若者の居場所づくり」(2003−06年度)概要
●支援活動の自己定義
②の「居場所づくり」では、「居場所を求める子ども・若者」 *8を支援対象にすえた「フリースペース」を開設・運営してきた*9 。「子ども・若者」を社会的弱者と捉え、彼(女)らに対する支援を、「非専門家であるような同世代が、同じ目線で」行うというのが、基本コンセプト。そうした基本姿勢をあらわす言葉として、「喫茶店」のたとえが頻繁に用いられる。

●支援活動の具体像
毎週木曜−土曜日(3年目より水曜−土曜日に)、13時−17時(2年目より11時から17時に)の間、「フリースペース」を開所し、そこに「スタッフ」1−2名が常在し、通ってきた「利用者」、つまり「子ども・若者」の求めに応じて、さまざまな関わりを行ってきた。「フリースペース」の「利用料」は、「利用者」1人につき、1,000円/1日。


(2)「子ども・若者の居場所づくり」における「ボランティア」不在とその含意
●「ボランティア・スタッフ」の不在
「ボランティア・スタッフ」は、基本的に受け入れていないし、活用もしていない。支援活動に関わる仕事の一切は、「スタッフ」2名のみで行う。②の「居場所づくり」では、支援者/被支援者の「線引き」は、2名の「運営者」=「スタッフ」、つまり「フリースペース」を準備する側と、それ以外の人びと、つまり「居場所」を求め「フリースペース」に集う人びとの側との間に引かれる *10。何らかの理由で「居場所」を求め「フリースペース」を訪れた人びとであれば、どんな人であれ、「居場所」ニーズのある人=支援対象としてカテゴライズされることになる。

●「ボランティア」の意味づけ
この「線引き」のもとでは、「ボランティア」希望者はどのように扱われるのであろうか。「ボランティア」希望者は、ここでは、「「フリースペース」での「ボランティア」行為に自分の「居場所」を求める人」と読みかえられる。当然ながら「利用者」として分類されることになる。言い換えるなら、「ボランティア」希望者は、ここでは、他の「利用者」と同じように「利用料」を負担した上で、「フリースペース」に「ボランティア」をしに来るということになる。「ボランティア希望」と称してやってきた人びとに対しては、最初にそうした事情を説明するのだが、彼(女)らのほとんどはこの段階で通うのをやめる。「ボランティアする側」になることは積極的に志向するが、「される側」にはなりたくない、ということであろう。


4.おわりに
発題者自身がこれまで関わった二つの「居場所づくり」の活動を事例に、そこで「ボランティア」がどのように捉えられているのか、とりわけ、対人援助に関わる「ボランティア」が何を前提として組織化されているのか、などについて見てきた。

「居場所づくり」という対人援助場面において、「ボランティア」とは、指導・治療・支援などの専門職能者ではないゆえに「援助する側」としての正当性を欠く存在である。それゆえ「ボランティア」は、そこに身をおくことで「「援助する側」=強者の地位にある自分とはいったい「誰」であるのか」「「ボランティア」を通じて被支援者を弱者の地位に割り振ることで、自分はいったい「何」を手に入れているのか」という問いにさらされ、従来の「ボランティア」観が自明視してきたような価値前提を揺さぶられ、葛藤の渦に巻き込まれることになる。発題者自身も当然ながらそこに含まれ、その意味で、本発題は、そうした葛藤や煩悶の産物であるといえる。

自分が「援助する側」と「される側」のどちらにも分類可能であるような、「居場所づくり」という支援実践にあっては、「ボランティア」の前提というものが、他の社会福祉実践における「ボランティア」の場合よりもずっと見えやすい。「障がい者」「高齢者」「児童」など、制度的に構築された社会的弱者カテゴリーの場合に見えにくくなってしまっている「ボランティア」の前提を改めて見つめ直すための手がかりを得るという意味でも、「居場所」での支援活動に関する事例は、さまざまなヒントを与えてくれるだろう。



●参考文献
石川良子、2005、「「ひきこもり」に関わる人たちが“現場”に居続けるための実践」、『繋がりと排除の社会学』、明石書店
稲沢公一、2002、「援助者は「友人」たりうるのか:援助関係の非対称性」、『援助するということ:社会福祉実践を支える価値規範を問う』、有斐閣
小澤亘編、2001、『「ボランティア」の文化社会学』、世界思想社
金子 昭、2003、「「ボランティアされる」という体験」、『天理大学人権問題研究室紀要』第6号、81−86頁
原田隆司、2000、『ボランティアという人間関係』、世界思想社

*1:学校(小・中・高校)に通っていない10代の子どもたちのうちで、「居場所に通いたい」と意思表示した人たち、を指す。

*2:不登校親の会」が設立準備を行い、開設後の運営は、独自に組織された「運営委員会」が担った。「運営委員会」の意向を受けて、「専従スタッフ」2名が「事務局」を構成し、「フリースペース開設」などの事業にあたった。事業の実施にあたり、「専従スタッフ」だけで人手が足りない場合、その都度「ボランティア・スタッフ」が組織化され、活用された。「フリースペース開設」事業に関しては、8名の「ボランティア・スタッフ」が関わっていた。

*3:「学校にも家庭にも居場所のない子どもたちのための、第三の居場所」というのが、そのキャッチコピーである。

*4:専門職能者の「指導・治療・支援」によって傷つけられた人びとが、「専門家」としてのそれではない、別種の関わりかたを積極的に希望するという「非専門性ニーズ」が存在する。そのことを、当時の「不登校親の会」は、「人が人にしてあげられる最高のプレゼントは、「いっしょにそばにいて同じ時間をすごすこと」だ」と表現していた。

*5:「専門知」という制度的な裏づけによって、それをまとう専門職能者は、自らの行う指導・治療・支援などの実践に正当性を確保している。

*6:例えば、「ボランティア・スタッフ」のAさんの事例。「ひきこもり」などに苦しみ続け、「社会復帰」へのきっかけを捜し求めてあちこちを渡り歩き、それでもどこにも頼る場所を見出せず、「最後の頼みの綱」として「居場所づくり」での「ボランティア」を希望したような彼(女)の置かれた状況を思うと、「あなたは「ひきこもり」で「支援される側」に該当しますが、「不登校の子ども」ではありませんのでこちらでは対応できません。他をあたってください」と断ってしまうことも難しく、それならば、「他の「ボランティア・スタッフ」と同じ仕事をしてもらうこと」を条件に、「ボランティア・スタッフ」として、受け入れることにした。この他にも、「ボランティア・スタッフ」として受け入れた事例が数件、それをはるかに上回る件数で、「ボランティア・スタッフ」としての仕事さえもが困難で、受け入れを断念した事例がある。

*7:この「タダ乗り」には、①経済的な意味におけるそれと、②社会的な意味におけるそれが含まれる。前者は、「フリースペース」を「利用料」を負担することなく「自分の居場所」にしているという点で「タダ乗り」であるし、後者は、「不登校の子どもたち」に対して「援助する側」=強者の地位に回ること/「不登校の子どもたち」を「援助される側」=弱者の地位に回すことで、「ボランティアされる側」という劣位を「不登校の子どもたち」に割り振り、自らはそこに配置されることを回避している、つまり、弱者を踏み台にして自らは強者の地位についているという点で「タダ乗り」である。

*8:「居場所に通いたい」と意志表示した「子ども・若者」すべて、を指す。実際の「利用者」は、「子ども・若者」には限られておらず、それ以上の年代の人びとも訪れる。

*9:こちらでは、①の「居場所」における「不登校親の会」のようなものは存在しない。「居場所」の設立・運営は、基本的に、若年世代の「運営者」2名で行っている。

*10:こうした支援者/被支援者の「線引き」は、また別の新たな課題を引き寄せる。時間が経つにつれて「居場所」での支援活動は拡充していく傾向にあり、2名しかいない「運営者」=「スタッフ」だけでは人手不足であるような局面も出てくるようになってきたのだが、こうした「線引き」では、「支援する側」であることの敷居が極端に上がってしまったがために、新たに「支援する側」の人材を確保することが困難になってしまった、という問題である。先に述べた「非専門家の手による」という自己定義もまた、その困難に拍車をかける。「専門家でない」ということには、「誰にでもできる」という含意があるわけで、では、「誰にでも」なれるはずの「居場所」の「支援側」に「なれない」人びとがいるということをどう説明できるのか。つまり、「支援する側」が有しているべきであると、②の「居場所」で、暗黙のうちに前提されている「何か」について、言葉ではっきりと定義し、提示する必要があるということである。「居場所づくり」において、発題者らが現時点で直面しているのはそのような課題である。詳細については省略するが、次のような分岐点に差しかかりつつあるように思う。ひとつには、「専門家不在」をさらに徹底させていく方向であり、ある種の「ピア・グループ」「自助グループ」として、支援者/被支援者の間の「垣根」や両者の「非対称性」を限りなく薄めていくという路線である。あるいはまた、「専門家不在」を解体していく方向である。といっても、既存の「専門性」、すなわち指導・治療・支援などの専門職能を「居場所」が新たに身にまとうというのではなく、既存のそれとは異なる「居場所」という場での関わりに固有の「専門性」をきちんと言語化し、それに基づいて「支援する側」に立つ者が獲得すべき前提条件を目に見えるものにしていくという路線である。現在は、両方のベクトルが混在している状況であり、②の「居場所づくり」が長期的に見てどちらに主軸をおいて展開していくことになるのかは、現時点では判断がつかない。