「言語化」って言うな!?

■年度末、恒例の「居場所合同研修会」に参加した。今回のテーマは「協働」。これまでともに研修に努めてきた三つの居場所で、「協働」可能なことはないか、具体的に検討することがひとつの課題だった。当然ながら「協働」が成功するための必要条件は、関与する人びとの間に共通言語や共通前提が存在すること。であればこそ、「言語化による共有」は、わたしたちの間での最低限の共通了解である必要がある。そう考えていたら、ある意見をいただいた。
■かいつまんで言うと、それは、「「言語化」って言うけど、そんなに簡単に思いを言葉にできるわけない!」とか「言語化できない身体レヴェルでの違和感こそが重要では?」というもの。なるほど、それはその通りだ。わたしたちは言語を使って、もやもやした無定形な世界やら感情やらを切り分け、命名し、それによってはじめて、そこに何があるのかを認識する存在だ。当然ながらそこには、分節や命名からこぼれ落ちてしまう残余だってある。「言語化」って言うな!
■だが待て。「言語化の困難さ」を指摘することは、必ずしも「言語化の無効」を意味するわけではない。そもそも、「言語化できない思いがある」という言明だって、そういう「思い」があるということを名指し、分節しているのであって、その時点ですでに「言語化」の作業なのだ。その「言語化」によってはじめて、「言語化できない思いってあるよね」という共通言語で集い、共同で異議申立てを行うことが可能となっているのだ。これこそ「言語化」の効用ではないか。
■以上をまとめるとこうなる。身体レヴェルの違和感や不快感の存在に気づき、その認識を共有するためにすら、まずはその違和感を「言語化」することが必要不可欠。とすれば、問題なのは「言語化はよいか/わるいか」ではない。「言語化」の重要性は単なる前提だ。大切なのはその先で、わたしたちがさまざまなレヴェルで「言語化」をすすめていくために、いかにして、言葉が生まれやすい環境や装置をつくっていけるか、という点にある。
■ではその「言語化を促進する環境」とは何か。例をあげよう。先の「言語化できない残余」という異議申立ては、研修会でのある分科会グループから出されたもの。その分科会は、経験豊富なスタッフを排除し、研修生とボランティアのみで構成したもので、であればこそ、普段はベテランの言葉に埋もれ、かき消されてしまいがちな「小さな声」が生成し得たわけだ。「環境」とは、こういうしくみのこと。ここが、わたしたちの新たなフロンティアなのだ。*1

*1:『ぷらっとほーむ通信』036号(2006年04月)