祝祭の終焉

透明な存在の不透明な悪意

透明な存在の不透明な悪意

■W先生の社会学ゼミ。5コマ目。16:20−17:50。参加者は、学部4年の学生さん6名(女4/男2)と先生とわたし。先生が司会となり、卒論の中間報告を。今回の報告は2名。学生さんの報告テーマは、「犯罪の戦後史」と「宮崎駿の思想」。いつものごとく、レジュメ報告ののち、学生さんそれぞれに先生が報告へのツッコミを促す。提出された質問やコメントに報告者が応答していくなかで、新たな論点が掘り起こされたり、構成に修正が生じたり、といったことがおこる。わたしからは、文献の紹介に限定したコメントを。定刻をややまわったあたりでゼミは終了。
■以下感想。昨日の今日、ということもあり、学生さんもW先生もともに疲れ気味な感じ。昨晩は、わたしが退去した後に「阿鼻叫喚の地獄絵図」とやらが展開されたらしい。詳細について皆が固く口を閉ざして語ろうとしないあたりが、昨日起こったことの凄まじさを物語っているようでもあり。「祭りのあと」というのに加えて、今回が今年最後のゼミとのことで、何だかひどくしんみりした感じに。次に彼(女)らと再会できるのは来年1月の2週目とのこと。何だか「ひとくぎり」がついたような感覚があり、どっと疲れが出てしまう。よくはわからない。わからないが、「何か」が今日で終わった。そんな感じがした。
■予定であれば、その後の6コマ目に、H先生の教育学ゼミ(学部4年:内容は卒論進捗期状況のチェックだそうな)に参加させてもらうつもりだったのだが、開始時間に間に合わなくなってしまったうえに、体調もあまりよくない感じだったので、急遽、参加を見合わさせてもらい、そのままおとなしく帰宅。帰り道の車中、この「終わった感」がいったい何であるのかについて考える。思うにそれは、W先生のゼミに感じた「理想」的なありかたが、結局は、わたしがそこに勝手に投影していた「幻想」の類であったということが露呈したことによるものではないかと。それが「幻想」だとわかってしまったことで、それまで継続的に保たれてきていた「期待」が滑落したのだと思う。てことで。帰ろう、平板な現実へ。