ゼミという快楽。
- 作者: 遙洋子
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2000/01/01
- メディア: 単行本
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■以下感想。司会を毎回ランダムに立てるのは面白い。司会進行の役割を免除されていたためであろうか、W先生は比較的自由に上で述べたような役割をこなしておられるように見えた。「日曜ゼミ」でもこういう工夫は必要かも。ちょっとだけ違和感だったのが、レジュメに「参考文献」が記載されていないこと。何を「資料」として用いるのかが明記されていないこと。加えて、そもそもその研究のオリジナリティがどこにあるのか、先行研究の何が不満でどういう点をそこに付け加えようとしているのか等といった論文全体を統御すべき論理の軸が曖昧なままであること。対象としているのが、どのような時代の、どのような地域の、どのような階層/集団の、どのような領域なのか、それがいまだ不明確なこと。全て指摘しようとも思ったのだが、これは社会学自体がそうなのか、当該ゼミがそうなのか、あるいは報告者がたまたまそうだったのか、まだよくわからないので一部のそれに留めた。それにまだ参加させてもらって一回目だし。次回は再来週とのこと。また参加許可をいただいたので、参与観察させてもらおうと思う。
■いやあ、やはりゼミは面白いなあ。快楽であるなあ。そんなことを再確認しながらの帰り道。観察結果をあれこれ考察しようとしたときに、どうしてもその準拠点は、かつての専門であった「ヨーロッパ近世史」やそのときのゼミ経験になってしまうわけだが、そんな経緯から当時のゼミ運営に関わるあれこれをふいに思い出す。例えば、学部のはじめのころの西洋史ゼミでは、レジュメ報告者(大概はゼミ入りたての2年生)のほかにもう1人、報告者へのツッコミ担当(大概はゼミ古参の3年生)を1人置いていたこととか、当時のゼミでは、本格的な議論の前の準備体操として、ゼミ学生に輪番で2人ずつに「最近のゼミ関連の読書レポート」を口頭で義務づけていたこととか。当然ながら、あれもこれも「日曜ゼミ」に応用可能なわけで、そういうことも含めてあれこれ試行錯誤していきたいなと。
■ところで、このゼミ形式の学び(とその帰結としてのゼミ生の知的向上)というものを、ナラティヴ・セラピーの観点から記述してみるとけっこう面白いんではないかと思いますた。かつての自分がそうであったように、ゼミ形式の学びを通じて「主体的/能動的な自己(の物語)」というものを獲得できるとするなら、それはいかなるメカニズムによるものであり、いかなる条件がそれを具体的に可能にしているのか。などなど。「ゼミ形式の学び」のフィールドワーク。もちろんそこでの知見は「日曜ゼミ」の運営にも直接的に応用可能。ゼミが最大の快楽なのであれば、そのゼミを中軸にすえた活動なり事業なりを考えないでどーする!と、脳内の人が最近とくにうるさいので、そういうことも考えていこうかと。そういえば、前に読んだ、遙洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』もまた「社会学ゼミ」への参与観察の記録なのであった。あらためて読み返してみよう。