「フリースペースSORAの言説分析」

1 はじめに
滝口克典(筆者自身を指す)は、2001年1月から現在まで、山形市内において、若年世代を対象とした「居場所づくり」の運動・活動に継続的に関与してきた。2001年1月から2003年3月までは「フリースペースSORA」(山形市東山形。二〇〇四年七月をもって解散。以下「SORA」と略記)、2003年4月以降は「ぷらっとほーむ」(山形市江南)の創設・運営に、それぞれ代表として関わっている。とりわけ前者の「SORA」は、「民間の通所型フリースクールとしては、県内で初めての試み」 であり、同じ地域に前例が存在しなかったがゆえに、そこではさまざまな試行錯誤が繰り広げられた。
前例がないなかで「居場所づくり」を行うということは、ただ子どもや若者が集う空間を物理的に創出するというだけでなく、自分たちの行為が何を意味するのかについて、その未知の価値を定義し、意味づけ、外部に対してわかりやすく説明し、そうすることで支持者を確保していくような言説実践をも必要とする。支持者の有無が財政的にも死活的に重要な市民運動・活動にあっては、自分たちについて語ることが、そのまま政治に直結する。「言説=政治」なのである。
しかしながら、この「言説=政治」の死活的な重要性に関しては、「居場所」をはじめとする個々の市民運動・活動はおろか、それらの「支援」を掲げて運動・活動しているはずの「中間支援」部門ですら、正当に認識しているとは言いがたいように感じられる。この状況を乗り越えるためには、まずは個々の運動・活動の現場における「言説=政治」の実際を丁寧に記述し、それらに着目することの重要性を訴えていくより他はないと考える。筆者もまた「居場所づくり」の運動・活動に携わる者として、その責を果たしたい。
そこで本稿では、県内初の「民間の通所型フリースクール」であった「フリースペースSORA」を事例として、滝口が、自らの「居場所づくり」実践に関していかなる定義を行い、そこに説得力をもたせるためにいかなる語りを動員し、そしてそれらをメディアごとにどう使い分けていたのか、そこにはいかなる政治的な意図が存在し、それによって運動・活動のどのような局面が切り開かれてきたのか、などといった問題について明らかにしていきたい。これらを記述することで、「居場所づくり」運動・活動の政治過程というものが理解可能となるであろう。
なお、分析にあたっては、「SORA」(2001年1月〜2003年3月)において、滝口克典が発した言説および彼の編集権の範囲内にあった言説を主な資料として用いる。具体的に言うと、同時期の「SORA」が発行していた会報『SORA模様』や、同時期に滝口が地域の福祉情報誌や他県のフリースクール通信誌に投稿した記事などがそれにあたる。

2 「居場所づくり」のスタートライン

2000年12月、山形市内で県立高校の講師をしていた滝口克典は、「県内初の民間フリースクール開設」という新聞記事を読み、「居場所づくり」の具体的な動きがあることをはじめて知る。そして彼は、記事にあった「居場所づくり」の母体である「不登校親の会山形県ネットワーク」に連絡を取り、「不登校の子どもたちの居場所づくり」の運動・活動に参入していく。

…偶然目にしたのが、「県内初の民間フリースクール開設」という新聞記事だったのです。活動しているのは、きっと現在の学校の在り方に違和を感じている自分のような人達に違いない。そう考え、私はフリースペースSORAの活動に関わろうと決めたのでした。

だが、その「不登校の居場所づくり」運動・活動の中で、彼は、ある独特な居心地の悪さに遭遇する。

…活動を始めた当初から、代表である自分に対し投げかけられ続けてきたある問いがある。それはこういうものだ。「なぜ(不登校経験があるわけでもない)あなたが、そのような活動にたずさわっているのか」と。そこでは暗にこう言われているのだと思う。「経験もない(=不登校を理解できない)あなたに何ができるのか」と。

そこで滝口が直面したのは、「不登校の居場所づくりは、不登校経験者かあるいはその親がやるものである」という暗黙の規範であった。この規範に従うなら、「居場所づくり」をめぐる語りの正統性はもっぱら「不登校親の会山形県ネットワーク」やその近隣で活動する団体に帰属するということになる 。滝口自身は「不登校経験者かあるいはその親」ではなかったため、その語りには正統性が与えられなかったわけである。彼の言葉が説得力をもちえたとすれば、それはひとえに彼の背後にあった「不登校親の会山形県ネットワーク」の正統性付与機能のおかげであった。
 しかしながら、2001年4月の「居場所」本格開設を直前にして状況は急転。「不登校親の会山形県ネットワーク」と「SORA運営委員会」の間で、「居場所」運営をめぐる認識のずれが発生する。話し合いの結果、2001年4月以降は、「SORA運営委員会」が「不登校親の会山形県ネットワーク」からは独立して、「居場所」運営に責任をもって取り組んでいくことになった。

もともとSORA開設を準備したのは、不登校親の会山形県ネットワーク(代表:白幡康則)。親同士の交流と「不登校」の啓蒙活動が活動の中心でしたが、その中で、子ども達の「居場所」の必要性が実感され、家でも学校でもない第三の居場所としてのフリースクール開設が構想されたのです。
さまざまな準備を経て、今年の2〜3月に試験的に開設すると、10歳から21歳までの10名以上の子ども達が集まりました。その結果を受けて4月以降の常時開設が決まり、SORA運営委員会が組織されました。この委員会が議決機関となってフリースペースSORAは運営されています。

これはつまり、既存の当事者団体である「不登校親の会山形県ネットワーク」とのつながり、すなわち、語りの正統性を喪失してしまったことを意味する。そしてまさにそのことが、「居場所づくり」運動・活動の出発点として、以後の滝口の思考と行動とを大きく条件づけることになるわけである。

3 非当事者による正統性確保のための諸戦略
正統性の不在状況下で、いかに語りに説得力を確保するか。学校や行政とは異なる立ち位置で、しかも「不登校親の会山形県ネットワーク」という既存の不登校支援ニーズの窓口からも切断されてしまった状態で、いかにして未知の不登校ニーズとつながっていくのか。そのつながりを確保するために、学校・行政・医療などの「専門家の語り」や不登校当事者団体のような「利害の語り」とは異なる、いったいどのような説得力を、その運動・活動にもたせることができるのか。当時、「居場所づくり」活動・運動の出発点で滝口が直面したのは、そういう課題なのだった。
とはいえ、「既存の専門家とも当事者とも異なる語り口の創出」というこの課題とそれへの自覚的な取り組みには、長い準備期間が必要だった。滝口が代表として運営していた「フリースペースSORA」は、その開設以来月一回のペースで会報『SORA模様』を発行しているのだが――これが団体の編集権のもとにある唯一のメディアであった――その誌面上に「居場所とは何か」をめぐる自覚的な言説群が登場するのは、2002年6月以降である。つまり、運動・活動がスタートした2001年4月からその時点までの1年2ヶ月の間は、「居場所とは何か」をめぐる公式の定義そのものが不在だったのである。
この不在は、そのまま正統性確保への努力の不在を意味しているわけではない。上記の会報『SORA模様』の誌面を分析すると、そこには、二つの点で「居場所づくり」の運動・活動に正統性、すなわち説得力を付与していこうという意識的な取り組みの痕跡が見られる。その取り組みとは何か。第一にそれは、「居場所」に集う不登校当事者の親たち・子どもたちの声を積極的に掲載することによる正統性確保への努力であり、第二にそれは、「居場所」運営スタッフの研修過程を掲載することで「専門性」への近接をアピールし、それによって正統性を確保しようという取り組みである。
前者に関しては、「保護者の方から」「おうちの方より」などとして、次のような記事が不定期で掲載されている。

「お母さん、SORAは家と一緒だよ!!」
「みんなやさしくていい人だ。」「誰も嫌なこと言ったりしない。」
「明日もSORAに行く!」
SORAに行くようになってからのRは風船をどんどんふくらましているかのように生き生きとしています。それを見ていて母も今ようやくRが必要なところに行き着いた気がして、ほっとしています。…
スタッフの方々、ボランティアの方々、お友達も、これからも優しいまなざしで見守っていて下さいね。母も、SORAが、だ〜い好きです。皆様と会えて幸運です。

子どもたちの声に関しても、「居場所」での生活や活動に関する子どもたち自身の手書き記事が掲載されている。二〇〇一年九月からは「SORAいろかわら版」という連載枠が設けられ、定期的に子どもたち自身による活動報告が掲載されるようになる。例えばそこには、次のような言葉が見られる。

私は、SORAに来るようになって一年が過ぎようとしています。その中で得たものはたくさんありますが、一番感じた事は、人とかかわり合う大切さです。ここに来る人達は、個性豊かな人ばかりです。私は、そんな中でお話したり、遊んだり、勉強したりする事が大好きです。こんな風にみんなでいっぱい作った思い出を忘れることはないでしょう。

 また、後者に関しては、「SORAの勉強会は何をしているの?」 、「第51次村山地区教育研究集会に参加して」 、「フリースクールスタッフ養成研修講座「フリースクールの創り方」参加報告」 、「不登校・ひきこもりについて考える会報告」 など、運営スタッフが実施した研修の過程や内容が掲載されており、「居場所」スタッフの「専門性」をアピールする形になっている。
これらはともに、不在の正統性を、より正統性に近接した他者――「居場所」を介してつながった不登校の親たち・子どもたち、あるいは指導・治療・支援などにおいて「専門性」を有する「専門家」――の存在や言説で埋め合わせ、そうすることで「居場所」独自の正統性を調達しようというものである。しかしながら、滝口の試みは、こうした他者の言説の利用のみにとどまるものではない。正統性に近接した他者による正統性補完とは別の、新たな語りもまた、この時期の滝口によって模索されていくのである。
そのきっかけになったのは、『SORA模様』とは別のメディア上での発言機会であった。例えば、自らの「居場所づくり」運動・活動への関与を正統化するために、次のような記述を当時の彼は残している。

大学院を卒業後、私は県立高校に常勤講師として勤務しました。はじめから教師を目指していたわけではありません。教員を志望したのは、自分が身につけた専門知識を役立てたいというそれだけの理由でした。…
…生徒指導部だった私は、頭髪指導や服装指導や遅刻指導など、とにかく学校側が一方的に決定した型に生徒達を無理やり押し込め、逃げたら捕まえてきてまた押し込める、みたいなことを繰り返していました。生徒達の意見など聴こうものなら自分が他の教師から「指導」を受けてしまうので、必死になって自分を殺しました。…
…先生方は生徒を自分達と同じ「一人の人間」として対等に見てはくれませんでした。あくまで「子供=不完全で未成熟=指導の対象」ということなのでしょう。生徒を「子供」と見なし上下関係の中で付き合うのが学校空間の作法だとするなら、私には自分を殺さずして教員を続けることは不可能でした。
とはいえ、それは自分の中で「逃げ」のような気がしていました。自分が現場で感じた違和を何処かで誰かに繋げていかなければ。そんな想いが頭から離れず、私は学校外の成育の場、それも子ども達と対等に付き合えるような場を探すことにしました。

ここで展開されているのは、「確かに自分は「生徒」として不登校=学校からの抑圧を経験したことはないが、しかしながら「教師」として学校からの抑圧を経験していた「不登校教師予備軍」だった(だから不登校当事者に近い)」という語りである。これを「教師としての不登校」物語と呼んでおこう。ここで模索されているのは、それまでのような正統性ある他者の存在や言説をいかに自分たちの活動・運動の側に確保するか、すなわち正統性の外部調達という方法なのではなく、自らの来歴のうちにいかに運動・活動に利用可能な正統性を発見し構築していくか、すなわち正統性の内部調達という方法なのである。同じ方法論の枠内で、次のような語りも模索されている。

…日々の活動のなかで改めて感じていることがあります。それは、フリースペース(=役割期待から解放され自由に過ごすことができる居場所)は、なにも子どもたちだけに限らず、大人たちにとっても必要なのだということ。そこには貴重な「癒し」があると思われるためです。…
…学校では認めてもらえなかった自分をフリースペースではありのまま受容してくれた、という体験。これは不登校の子どもたちのフリースペース体験と全く同質のものです。疲弊しきっていた私が、新しい価値の創造に向けた運動に動き出すことができたのは、このような「癒し」があったためだと思います。
もうひとつ指摘しておきたいのは、フリースペース開設運動をゼロからスタートさせることができたということ。もしそれが既成のシステムであったなら、自分のような経験もない若い世代の人間に発言し参画する余地が残されていたかは相当に疑問だからです。その種の無力感や幻滅を、若い世代は随所で味わっているように思います。未熟ではあれ自分たちがイニシアチヴをとって試行錯誤を繰り返すなか、少しずつ自分たちの活動に自信を得ていく。これもフリースペースの子どもたちが体験するプロセスと全く同じです。そこには若い世代に固有の「癒し」があるのだと思います。

こちらは、「不登校」という被害体験に照準するのではなく、そこからの「回復」過程に照準する語りである。すなわち、「確かに自分は不登校の苦悩の経験者ではないが、その子どもたちが「居場所」で経験する「回復」と同じ過程の経験者である(だから不登校当事者に近い)」という語りであり、こちらは「居場所の癒し」物語と呼んでおく。注意すべきは、「教師としての不登校」物語にせよ、「居場所の癒し」物語にせよ、どちらも「居場所づくり」の正規メディアである『SORA模様』でストレートに展開されるのではなく、それ以外のメディア――地域福祉情報誌や市民投稿雑誌――にてこっそりと語られていることだ。正規メディアとそれ以外のメディアとで発信されるメッセージの内容が異なるというこの二重基準が、この時期の滝口の言説編成の特徴であったと言えるだろう。これが、2002年6月になると、正規メディアにおける「居場所とは何か」をめぐる言説編成という新たな段階へと展開していくことになる。

4 定義行為のはじまり
(1)「脱当事者主義」の居場所へ
『SORA模様』の誌面を詳細に分析していくと、2002年6〜7月号から、滝口の言説編成に、従来にはない幾つかの特徴が現れるのに気づく。『SORA模様』2002年6月号より、「当事者」、すなわち不登校の親たち・子どもたちからのメッセージの占める割合がやや減少し、その代わりに、「居場所づくり」の運動・活動を財政的に支援する「サポーター」や「スポンサー」に関する紹介記事が定期的に掲載されるようになる。また、2002年7月号より、滝口自身による居場所論「フリースペースSORAとは何か」の連載が始まる。このような誌面の変化に現れた当時の滝口の言説戦略とはいかなるものだったのだろうか。
まずは前者の「財政支援者」に関する記事から見ていこう。掲載にいたる意識変容とその背景について、当時の滝口は次のように記述している。

もともとSORAは、親たちの団体「不登校親の会山形県ネットワーク」が、不登校の子どもたちの居場所として設立したフリースクール不登校・ひきこもりの問題に悩む親たち(つまりは当事者)が、自分たち自身で直接不登校・ひきこもりの子たちを支えていこうとして創設したものです。開設後のフリースペースの運営も、基本的には当事者である親たちが自分たち自身で支えていくべきという発想でやってきました。
ところが、こうした当事者主義の発想では、通ってきている子どもたちの保護者のみが居場所を維持するための財政負担を過度に背負ってしまうことになります。結果的に負担が大きくなり敷居が高くなってしまって、利用しづらくなっているという逆説。これでは、金銭的に余裕のある家庭の子どもしかフリースペースにアクセスできないことになってしまいます。…
不登校・ひきこもりに悩む子どもや若者たちの支援は、社会全体が真摯に取り組むべき課題であると、SORAは考えます。であるが故に、この問題への取り組みというのは、社会全体が支えていくべき類のもの。一部の当事者だけで支え続けられるものではないと思うのです。
そうしたことを考えていた矢先、SORAの理念や活動を理解下さる一般の方々数名より、居場所づくりの活動を今後も地域社会の中に維持し続けていってほしい、そのためにも定期的に財政援助をさせてほしい、との大変ありがたい言葉をいただきました。直接の当事者であるわけではない、それでも、自分たちの住むこの社会を、自分たち自身の関与によって少しでも皆が生きやすい社会に造りかえていきたいという、その想いがとてもとても温かく、これまで突き当たってきた辛さや苦しさが一度に昇華されたようなそんな気分でした。こうした市民の方々の想いがうまく合流すれば、きっと私たちは自分たち自身で社会をより良く変えていける。そんなふうにも思いました。

ここで語られているのは、「脱当事者主義」とでもいうべき語り口である。これまで見てきたように、既存の「不登校親の会」からの切断とそれゆえの正統性不安を埋め合わせるために、滝口は、表立っては「当事者」の抱え込みによる正統性確保(「当事者性」代弁を志向する当事者主義)や「専門性」への接近による正統性確保(「専門性」体現を志向する専門家主義)に取り組みつつ、その一方で、外部権威に依らない正統な語り口の回路(「不登校当事者≒学校被害者」の当事者主義/「不登校当事者≒居場所経験者」の当事者主義)を模索する。そこで密かに探られていたのは、既存の「当事者主義」に対するオルタナティヴな「当事者主義」なのだが、ここではさらにそれを突き抜けて、「当事者と何の代表・代理・近接関係もないけれど、それを支援する人たち」という「脱当事者主義」の語りが生成している。
もちろんこうした言及は、第一義的には、実際に支援してくれた「サポーター」や「スポンサー」への感謝の表明を意味しているわけだが、それを団体の正規メディアの誌面上で行うということの政治的な意図を見落としてはならない。そこにあるのは、「財政支援してくれる人たちがいるがいる、つまり社会的な意義がある」という正統性確保戦略なのである。これを「財政支援者の存在」物語と呼んでおこう。
また、この「財政支援者の存在」をめぐる語りの生成と拡充とに並行して『SORA模様』誌上で生じているのが、不登校当事者の親たちの言説の掲載比率の低下である。両者の関連についてまとめると、正統性不安への代替という点において、「当事者」である不登校の親たちの言葉に代わって、「財政支援者」が正統化の役割を担うようになってきたのだということである。誌面に占める記事の割合の変化は、正統化機能の重点移動の明白な表れである。この重点移動はもうひとつのより意義深い変化と連動している。そしてその変化こそ、正規メディア『SORA模様』誌上における積極的な「居場所づくり」言説の構築、すなわち滝口による居場所論連載「フリースペースSORAとは何か」の開始なのである。
だが、『SORA模様』の居場所論連載を検討する前に、正規メディアとは別の場所で滝口が残した、当時の重大な語り口の転換について記述しておこう。

…なぜ自分がこのフリースペースというものに関わろうと思ったのか、そしてなぜそうした活動をさまざまな苦労や責任や面倒を背負い込んでまで続けようとしているのかは、自分自身にとってもまるで自明ではない。そんな感じだから、「なぜ?」という例の問いかけは、ぼくには正直苦痛だったりもした。はじめのうちは、「学校での不登校対策のありように納得がいかなかったから」とか「実は講師時代自分も不登校予備軍だったから」とか、ありきたりの「わかりやすい」答えでお茶を濁してきた。だが、そうした紋切り型の受け答えをしながらも、自分のなかで、自分自身に対する「なぜ?」をごまかせなくなってきていた。そろそろきちんと自分と向き合って、自分なりの答えを見つけなきゃいけない。そう思った。

ここで滝口は、それまでさまざまな場所で開拓してきた語り口のひとつ、「教師としての不登校」物語を「紋切り型の受け答え」として否定、「自分なりの答え」を定義しようと試みる、と語っている。さて、ではその模索を通じて、彼はいかなる物語を採用することになったのか。引き続き、テクストを追いかけてみよう。

…学校という職場に対する違和感というのは全くその通りだ。だが、ぼくは在任中不登校問題に深くコミットしたことはない。関心がなかったわけではない。しかし、自分が関与すべき問題だという認識はなかった。だとすれば不登校という要素は、ぼくがフリースペースに関与し始めた主要因ではまるでない。…
…学校の中に居場所を見出せなかった当時のぼくは、ありのままの自分で居られる居場所や本音で語れる仲間たちを強烈に欲していた。そしてそれを(まったく幸運なことに)フリースペースというかたちでの居場所づくりをすすめていた人たちのなかに見出したのだった。学校という職場で孤独に苦悩していた自分が、ここではありのまま受容され一個の人格として尊重される、ということの貴重さ。それを、ぼくはこのフリースペース活動を通して、自分自身において体験した(そして今もしている)わけだ。だとすれば、先の「なぜ?」に対する答えは次のようになろう。「それは、そこがぼく自身にとっても居場所であるからだ」と。これが現時点でのいちばん正直な想いということになろうかと思う。
そう考えると、最初に述べた「(不登校・ひきこもり経験もない)わたし」という自己像に修正が生じる。確かにぼくには不登校経験もひきこもり経験もない。経験者として内側からそれらについて語る資格はぼくにはない。しかし、「居場所に癒された経験」はあるわけだ。だとすると、居場所(=フリースペース)の経験者として語る資格は、少なくともぼくにはあることになる。しかもその癒しは、何も不登校の子どもたちやひきこもり青年にのみ該当するものでは決してない。それは、どこかで生きづらさを抱えていたり、違和を感じていたりするような、つまりはどんな人にでもあてはまるものであろうと思う。だとすればなおさら、不登校でもひきこもりでもない自分のような者が居場所について語ること(そして実践していくこと)にこそ、意味があるのかもしれない。

ここでは、上述の通り「教師としての不登校」が否定され、それに代わってもうひとつの可能性としてあった「居場所の癒し」物語が「現時点でのいちばん正直な想い」として正統化され、それが、先に述べた「非当事者主義」――不登校当事者と代表・代理・近接関係にない者(他者)として居場所に関わるありかた――に連結されているのがわかる。「非当事者主義」によって「居場所の癒し」物語がいっそう補強されているわけだ。

(2)「居場所の社会化」へ
それまでの不安定な彷徨を経て、2002年の夏に滝口が辿り着いたのは、「居場所の癒し」物語によって「不登校の居場所づくり」運動・活動の正統性を確保するという語り口であり、立ち位置であった。しかもそこでは、「当事者であること」が「不登校・ひきこもり当事者・経験者」という属性から「居場所」の利用者・活用者という属性へと密かに移し変えられ、さらには「不登校でもひきこもりでもない自分のような者」こそが「居場所の癒し」物語の語り手としてむしろ正統性を有する、という「居場所づくり」運動・活動の正統化を志向する言説が紡ぎだされているのである。
そのようにして辿り着いた場所で、滝口はようやく「居場所とは何か」についての語りを開始する。『SORA模様』誌上での連載「フリースペースSORAとは何か」の第一回目には、次のようにある。

フリースペースSORAの開設・運営に携わってきて1年がたった。身近にモデルも前例もなく、すべて手探りの試行錯誤の中で積み上げてきたのだが、これまで積み上げてきたものをこの辺りで一度、きちんと分析し批評し位置付けする必要性を感じてきた。今回よりその作業に取り組んでいきたいと思う。そもそも、フリースペースSORAとは何なのか。そしてそのフリースペース(フリースクール)を山形において開設するとは、どういうことなのか。…

最後の部分に着目しよう。二つの水準の異なる問い――「フリースペースSORAとは何なのか。そしてそのフリースペースを山形において開設するとは、どういうことなのか」――があることに注意しておこう。前者は「居場所とは何か」をめぐる問いであり、後者は「居場所づくりとは何か」をめぐる問いである。換言すると、自分たちが構築しているものは何なのかというのが前者で、それを構築している自分たちとは誰か、あるいはその自分たちの行為とは何かというのが後者である。だが、そのように二重の水準で開始された滝口の「居場所/居場所づくり」論は、先述の「居場所の癒し」物語の強力な磁場のもとで、ある特有の偏りを伴いながら展開していくことになる。
ではその「居場所の癒し」物語の磁場とは何か。滝口はかつて次のように書いていた。

…日々の活動のなかで改めて感じていることがあります。それは、フリースペース(=役割期待から解放され自由に過ごすことができる居場所)は、なにも子どもたちだけに限らず、大人たちにとっても必要なのだということ。そこには貴重な「癒し」があると思われるためです。…

そこでは、「癒し」というまさにその一点において、支援される側の不登校の子どもたちと支援する側のスタッフの体験の間に共通性がある、という語り口が生成。だが、居場所の利用者とその運営者の同質性や対等性が強調されればされるほど、そうはいっても、それでも歴然と存在する利用者と運営者の線引きはどう根拠づけられるのか、根拠づけられないとすればそもそもその線引きをどこで行えばよいのかという難問が逆説的に浮上してくることになる。とはいえ、「SORA」は「不登校の子どものため」という「支援対象・目的」を有していたがために、この難問をかろうじて回避する 。積み上げられていく言説は、「癒し」という機能の内実を言語化する方向へ向かっていく。
滝口は言う。不登校の子どもたちも自分たちスタッフも、同じように「居場所」に癒されるのだ、と。では、そこで体験されている「居場所の癒し」とは何なのか。そこにはどのようなしくみがあり、いかなる機能がそこでは充足されているのか。居場所の効果とはいったい何であるのか。こうした「居場所の効用」をめぐる議論は、上記の第一水準の問い、すなわち「居場所とは何か」の水準にあたり、その効用やそれを生み出す構造を抽出し、言語化していく作業のほうに、滝口ははまり込んでいくことになる。
しかもその言説編成に関しては、記述形式のレベルである特徴が存在する。滝口の居場所論は、「居場所」の有する多様で多義的な機能群のうちのある部分を切り取ってきて、それを名指すところから始まるのだが、そうした作業は、当時の社会的文脈から何らかの関連する意味や価値を拾ってきてそれと「居場所」の該当機能とを重ねあわせる、という形式において遂行され、ひたすらその形式が反復されている。例えばそこでは、「居場所」の社会的意義が、「速さ/遅さ」との関連で語り直されている。

…SORAでは、フリースペースという場にいる子どもたち1人1人の時間感覚やペースを最大限尊重する構えをとっている……こうした構えには、いったいどのような思想的背景があるのか。…
子どもであれ大人であれ、現代のこの高度に資本主義化された社会に生きるぼくたちは、「生産的であれ!」とか「効率的であれ!」といった規範を無意識の内に身体化されるプロセスの内部にある。この規範を時間という観点から語りなおすと、「もっと早く!」ということになる。極論的な言い方になるが、学校も企業もこの「速さ」の肯定を前提として回っているシステムだと言えるだろう。
現代日本フリースクール/フリースペースは、一般的には、主に不登校児/生やひきこもり青年の居場所として理解されまた実践されているわけだが、速度という観点から見たときに、そこには切り離しがたい連関が存在している。不登校やひきこもりとは、学校や企業といった、他者により「速さ」を強制されるような場のそうした敷居の高さに違和を感じそれらの場を回避したり拒否したりしたケースだと言えるためだ。
そうやって他者により強要される類の「速さ」を拒絶した人たちにとって、敷居の低い場であろうとするなら、当然そこは、できうる限り「遅さ」が許される場、別の言い方をするなら、自らの速度を自分で決めてよい場であらねばなるまい。速度の自己決定権。フリースペースSORAが、子どもたち個々人のペースを尊重する根拠はまさにこの点にある。…
そんな「速度社会」のなかで、フリースペースは「遅さ」という価値を積極的に生きようとする数少ない実践のなかのひとつなのではないかと思う。そうであればこそ、フリースペースは単に不登校やひきこもりの子どもたちのためだけに必要な場なのではなく、「速度社会」に生きる者全てにとって何らかのかたちで必要なものなのではないだろうか。フリースペースの社会的意義はまさにその点にあるのだと思う。

別の箇所では、「社会の心理主義化」との関連で「居場所」が位置づけされている。

流動性を増した(=前提の異なる他者との遭遇可能性が増した)現代の社会は、共通前提をあてにできないことから他者との関係により意図せざるダメージを被りやすい、そしてそれ故に「癒し」や「こころ」に関心が集中しやすい社会だ。そうしたなか、「傷ついたこころ」を専門的に治療/支援する「こころの専門家」が必要であることも十分に弁えているつもりだ……だからといって、「こころの専門家」だけがそうしたことに関わるべきだとも思わない。…
…確かに、専門的に「こころ」について学んだわけでもない私たちが、不登校やひきこもりのような「訳のわからないもの」に遭遇したとき、「それは実は○○○なんですよ。だから○○○すればOKですよ」と簡単に教えてくれる「こころの専門家」がいてくれるなら安心だし効率的だ。余計に悩まなくてすむ。しかし、と私は思うのだ。その「わかりやすさ」(=速度!)こそが問題ではないのかと。
人と人との関係やコミュニケーションのありように関して、安易な答えなどないことくらい誰もが知っていよう。じっくり時間をかけ試行錯誤を繰り返しながら、ゆっくり少しずつ関係を積み重ねていくこと。そのなかでこそ、人は他者を、そして自分自身を受け容れ、尊重していくことができるようになるのではないか。だとすれば、あえて「わかりやすさ」への依存を回避し、そうしたスローな学びの空間を設計することこそが重要であるとSORAは考える。何らかのコスト負担(ここでは、自分で考え悩むこと)がなければ、何かを本当に学ぶことなど不可能だ。短期的な「問題解決」よりも、長期的な学習機会の確保を。心の問題についても、社会の問題についても、そうやって私たち自身が少しずつ賢明になっていくことが必要なのだと思う。

このように、「遅さの肯定」や「指導の禁欲」など「居場所」において彼らが実践する価値を、速度資本主義批判や心理主義化批判などの社会的文脈を動員することで正当化しつつ、「居場所の意義・効用」を構築している。これは、「居場所の社会化」とでも呼ぶべき語り口の生成であり、それまで「不登校・ひきこもり」とセットにして語られがちであった「居場所」を、「不登校・引きこもり」の外部である社会的文脈とセットにして語ることで、従来の「居場所」言説と「不登校・ひきこもり」言説の密接なつながり――その端的な表れが「不登校の居場所」なる表現――をゆるめるということを意味した。「不登校・ひきこもり」カテゴリーに特権的に内属させられてきた「居場所」が、「不登校・ひきこもり」の外部へと解き放たれること、これが「居場所の社会化」なのである。
このような語り口が、『SORA模様』の居場所論連載のなかで、各回のテーマに沿って反復的に強化されていき、やがてそれは「SORA」が依ってたつ「不登校の子どもたちの居場所」という基本理念との間に齟齬をきたすことになる。これまで「居場所づくり」の運動・活動をいちばん外側で統合してきた物語枠組としての「不登校の居場所」という語りを破綻させることになる契機が、ここでは顔をのぞかせているのである。

5 「フリースペースSORA」の終焉
前節で見たように、滝口は2002年6月以降、その居場所論連載を通じて「非当事者主義」による「居場所の癒し」物語を構築。そうした語りへの依拠から、「居場所」の帰属先を「不登校の子ども」のみに限定せず、その外部――「非当事者」――にまで解き放とうと構想するようになる。その試みの果てで、彼は「居場所/居場所づくり」の最終定式――「「子どもたちの居場所づくり」という名の居場所。」――を完成させる。

…「子どもたちの居場所づくり」という場が、スタッフにとっても一つの「居場所」になっているということなのだと思う。「居場所」の要件とは、①自分のありのままを受容してくれる場であること、②自己関与の余地が保障された場であるということ、この二点につきると思う。とりわけ後者の契機が重要である。「居場所づくり」という目的のために、素人の若者たちが試行錯誤しながら自分たちで創っていける場であるということ。そう考えるとこれは、フリースペースで子どもたちが経験するプロセスとまるで同じだ。そうであればこそ、ぼくたちはフリースペースに関与し続けていけるのだと思う。

当然ながら、この構想が「不登校の子どもの居場所」を第一義的な目的とする「SORA」の運動・活動理念と齟齬をきたしやすいものであることは、彼には観念されていた。このことは、当時の彼にある固有の苦悩をもたらしていたらしい。『SORA模様』にはこうある。

不登校の経験者でも親の会の如き支援者でもなかった僕が「フリースペースSORA」という居場所づくりの活動に関わろうと思ったのは、きわめて個人的な動機、すなわち僕自身が当時何らかの居場所を欲していたためで、そういう人間をも受け容れてくれた仲間たちには本当に感謝している。当時の僕のような、「不登校」「ひきこもり」などのわかりやすいレッテルを有してはいないけれども居場所を欲している、といった子どもや若者たちが、実はたくさん存在しているのだと思う。残念ながらSORAは不登校支援が目的であるため、しばしば届くそうした人たちの求めに応じられない場面も多かった。僕自身が居場所に救われた一人であったから、このことは余計にきつく感じられた。…

二つの物語の矛盾に苦しんだ彼は、やがて「SORA」を離れ、その外部で「非当事者主義」による「居場所の癒し」物語の現実化を模索する道を選択することになる。では、この新しい物語の選択は、彼においてどのように言説化されていたのか。ここでも彼はその「選択」それ自体をひとつの物語として言説化している。先の引用部分の続きにはこうある。

…フリースペース内部に過度の多様性=流動性を抱え込むことは、実は非常な困難を伴う。それは居心地の悪さにもつながり得るためだ。ではどうするか。単一のフリースペースが内部に多様性を抱え込めないのであれば、多様なフリースペースが複数存在する状況をつくるしかない。SORAとは異なるもうひとつのフリースペースを創ること。それが、悩み苦しんでいる子どもや若者たちのための選択肢を確保するために、僕たちが出した結論だ。これからはまた別の「居場所」を創っていくことになるが、目指すもの(若年のための多様な社会的選択肢の創出)はSORAの仲間たちと全くかわらない。…

ここでは、先に述べた二つの物語の間の矛盾が、「フリースペース内部に過度の多様性=流動性を抱え込むことの困難さ」として表現されている。そしてその「困難」を克服するためであるとして、彼は、自らの「新しい物語」選択の正当化を試みているのである。ここにあるのは、「SORA」の物語を肯定しつつも、そこから自らの「新しい物語」を差異化し、正当化する語りである。鍵となるのは「多様さ」の積極的肯定。この語りにおいて、「学校でも家庭でもない第三の居場所」を標榜して開始された「県内初の民間通所型フリースクール」であった「フリースペースSORA」は、さらにそこからオルタナティヴ(異端)が生成するためのエスタブリッシュメント(正統)という位置づけを割り振られている。
さらに、ここにきて、滝口の視点や関心は「単一のフリースペース」をいかに運営するかということから、「多様なフリースペースが複数存在する状況」をいかに構築していくかということへ、完全に移行しているのがわかる。ここには新しい語り口の萌芽がある。「SORA」のスローガンをもじって言うなら「学校でも家庭でも不登校の居場所でもない、第四/第五/第六…の居場所(の偏在状況)を」というわけだ。「もうひとつのフリースペースを創る」とは言いながらも、そこに見られるのは、もはや「特定の居場所をどう創るか」に限定されない「各々の居場所づくりとそれを取り巻く環境構築をどう支援していくか」という俯瞰的な視点なのである。「フリースペースSORA」がその二年間の運動・活動の最後で滝口に産出させたこの新しい物語を「多様な居場所の環境づくり」物語と名づけよう。
以上のような経緯を経て、2003年3月、滝口は「フリースペースSORA」の運動・活動より離脱する。同年4月より、彼は、山形市内で新たな団体「ぷらっとほーむ」を立ち上げ、「居場所を求める子ども・若者たちが、本音の自分でいられ、しかも自分で試行錯誤しながら多様な生きかたを選び、歩んでいけるような社会環境を、子ども・若者の側から、子ども・若者の視点で創りあげていく」 場としてのフリースペースを開設し始める。同じ頃、「フリースペースSORA」もまた運営体制や活動目的を一新させ、「フリースクールSORA」へと呼称を変更 。「フリースペースSORA」が山形市内で唯一の民間通所型の「居場所」だった時代は、文字通り終わりを告げ、2003年4月以降、山形市における「居場所づくり」の歴史は新たな段階に入っていく。以上が、「言説=政治」の過程に照準した「フリースペースSORA」のミクロヒストリーなのである。

6 おわりに
2001年4月、既存の「不登校親の会」から独立してその「居場所づくり」運動・活動をスタートさせた滝口克典は、失われた正統性を補完するために、さまざまなやりかたでこの正統性(あるいはその代替物)を調達しようと尽力する。はじめに彼は、正統性を有する他者――「当事者」と「専門家」――の存在や言説を自らのメディアのなかに織り込むことで、この正統性を外部調達しようと試みる。だが、結局のところ「当事者」でも「専門家」でもない彼は、それら(やその類似物)を権威源泉とした運動・活動に限界を感じる。並行して彼は、他所のメディア上において密かに、正統性のありかを自らの実践や来歴の内部にさぐり始める。正統性の内部調達の取り組みである。
やがてそこで「居場所の癒し」という安定的な足場を確保した彼は、2002年6月ごろを境に、その語りを軸に積極的な「居場所/居場所づくり」の定義行為に着手する。そこで産出されるのが「非当事者主義」という当事者ならざる彼の立ち位置を積極的に肯定する言説であり、「居場所の癒し」の内実や論理を積極的に展開した「居場所の効用」論である。そしてその「効用」をも徹底的に社会的意義と連関させて語ることで、彼は「居場所」を――「不登校・ひきこもり」との強い紐帯から解き放ち――「社会化」するに至るのである。やがて、滝口は「SORA」から離脱し、到達した物語をより積極的に展開できる場を求めて「新しい居場所」の設立へ向かうことになる。その際、彼は「多様な居場所の環境づくり」という、現状の正当化のための最後の物語を産出する。
以上が、2001年1月から2003年3月までの「フリースペースSORA」時代の滝口の政治過程の痕跡のまとめである。冒頭でも述べた通り、新しい価値を社会的に創出し流通させていくことを目的とする市民運動・活動にとって、「言説=政治」への意識的な取り組みは死活的な重要性を有すると思われる。この重要性に注意を喚起するため、本稿では、かつて筆者が自らの運動・活動のなかで実践してきたことを、この「言説=政治」の一事例として記述してきた。とはいえ、それらは「言説=政治」の語り手の側を分析したにとどまる。「言説=政治」の効果を明らかにするためには、それらの受け手の側の変容をも記述する必要があり、これが今後の課題となろう。さらには、この「フリースペースSORA」の事例を端緒に――「居場所づくり」に限らず――さまざまな運動・活動を対象として、同様の事例を積み重ねていきたい。