日曜ゼミ 合宿篇

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

現代演劇のフィールドワーク―芸術生産の文化社会学

現代演劇のフィールドワーク―芸術生産の文化社会学

資本論〈第1巻(上)〉 (マルクス・コレクション)

資本論〈第1巻(上)〉 (マルクス・コレクション)

「国語」という思想―近代日本の言語認識

「国語」という思想―近代日本の言語認識

■日曜ゼミ合宿@蔵王ドッコ沼ロッジ。参加者7名。報告テーマは次のとおり。

①「学校とはどういう場所なのか」
②「私の身体は誰のもの? 〜演劇的身体・表現・パフォーマンスする身体〜」
③「商品交換 〜『資本論』第1章−第4章から〜」
④「イデオロギーとしての「国語」論」
⑤「フリースペースSORAの言説分析 〜市民活動・運動の政治過程の一事例として〜」

①は、内藤朝雄『いじめの社会理論』をもとに、「中間集団全体主義」の典型事例としての学校と、そこで優位になる秩序原理の一形態として「いじめ」を位置づける。全体主義的ではない生/社会とはどのようなものか、をめぐる概念的な整理。
②は、高度に資本主義化された社会のもとで部品化され疎外された身体を自己へと取り戻す契機として「演劇」に着目。戦後日本における「現代演劇」の歴史。中央/地方において「演劇」――さらには「文化」――が置かれた状況の落差。植民地と「演劇」。
③は、マルクス資本論』の要約。使用価値/交換価値の峻別から、剰余価値のありかが労働力のなかに見出されるに至るまでの、マルクス資本論』の論点整理。そうしたものの見かたが、現代日本の企業社会の分析とどのように接続する/しないのか、が個人的関心事。
④は、明治日本の「国語」イデオロギーの成立と、それと連動した「標準語」の正統化についての整理。それを下敷きに、近年の「日本語ブーム」の意味を考察する。斎藤孝がどうしようもないのは置くとして、なぜそれが大衆的な支持を得てしまうのか。
⑤は、私が8月に某所に提出した論文。山形市で活動していた不登校の居場所「フリースペースSORA」における「言説=政治」過程に関する自己記述の試み。自らが提示する価値/運動をメタに読み解くことの困難さ。
■今回飛び入り参加してくださったKさんからの質問。いったいこの場では、何を目的に言葉を積み重ね、議論しているのか? それに対し、おおよそ次のように私は答えた。私たちは不自由である。私たちは、地方公務員だったり、フリーターだったり、団体職員だったり、自営業者だったり、学生だったり、あるいはそのどれでもなかったりするが、それぞれの立ち位置でそれぞれに固有のしかたで不自由さを感じている、という点で共通している。この不自由さはいったい何に起因するのか。自由に生きられるようになるためには、この不自由のよって来るところを明らかにしなくてはならない。自由の条件は、不自由の現状分析より始まる。とはいえ、人は一人では、それぞれの立ち位置への緊縛ゆえに、自由な眼によって、不自由をもたらす構造を見通すことが困難である。とすれば、この不自由の現状分析/自由の条件探索の作業は、共同作業でなくてはならない。現在の自分やそれが帰属する価値を外部視点から見つめ直してみること、そしてその外部視点への契機としての共同作業。ある仮説が、そうした共同作業の正当性を補強する。すなわちそれは、私たちそれぞれを襲う不自由は、その出所において共通の構造を有するのではないか、というもの。とりあえずそんなふうに答える。もっとていねいに言語化する必要性を痛感。
■とりあえず、日曜ゼミ前期の日程が無事終了したことに安堵。後期より数名ほど参加者(報告者含む)も増える見込み。後期の日曜ゼミは、毎月第3日曜日14:00〜18:30をベースとして、山形市市民活動支援センター(霞城セントラル内)にて、10月より開催していくことに決定。文献購読をもとにした報告のみならず、それぞれの現場での実践を記述したようなかたちの報告をも受け容れていければと、個人的には思う。自由を求め不自由に立ち向かう人びとの、立場や職種を超えた選択縁の共同体。そういうものに、この日曜ゼミの場が育っていけばよいと思う。我ながら香ばしい話ではあるが。