『言論統制列島』/『学校は必要か』/『2050年のわたしから』

最近の読了本。
鈴木邦男森達也斎藤貴男言論統制列島 誰も言わなかった右翼と左翼』

趣旨はわかるし、おもしろい企画だとは思ったが、それにしてもどうにかならんものかこの装丁。森や斎藤や鈴木の名前を見て本書を手にとる人って、既にどこかで彼らの思想なり主張なりを知っているわけで、おそらくそういう人にとって本書の啓蒙的な意味合いは薄い。それぞれの主張は、各自が自身の著作で展開しているものと大差ないし、では鼑談ゆえの面白いカラミが見られるかというとそういうのもあまりない。既知の言説がただただ水平方向に伸びていくだけ、という感じ。そういうわけだから、本書が意味をもつのは、未だに、斎藤貴男『機会不平等』も鈴木邦男新右翼』も読んだことがなく、森達也『A』も観たことがない、そういう人たちであるはずだ。特に、彼らが口をそろえて「目覚めよ」と呼びかける「生活保守主義」の人びと――不安につけこまれ治安国家化を自ら招いてしまうということの、途方もないリスクに無自覚な人たち――にこそ、本書は読まれる必要がある。だったら尚更、彼らがそれとは気づかずに手にとって読んでしまうような、オサレな装丁でなければならなかったんじゃないのか(こっそり革命)。こんな昔の運動家みたいな装丁(パロディなんだろうけど)じゃ、本当に呼びかけなきゃいけない人たちには絶対に手にとってもらえなさそう。余計なお世話ですかそうですか。
奥地圭子『学校は必要か 子どもの育つ場を求めて』引き続き奥地本リーディング。本書は、1992年の著作。東京シューレ7年目。例の「自由・自治・個の尊重」なのだが、「自由」や「個の尊重」はともかくとして、「自治」の用法が気になる。この「自治」とはあくまで、東京シューレの日常的活動に関する子どもたちの「自治」ということであって、学校に類比して言うと、「生徒会自治」にあたるもの。決して「職員会議」にあたるものではない(「職員会議」にあたるものは、奥地自身と「父母会」から構成される「運営委員会」ということになるのだろうか)。組織のありかたを深層で規定するアーキテクチャーに手をつけることができる=本来的な意味での自治が可能なのは、学校でいえば、最低でも「職員会議」レベルの会議である。「生徒会自治」には深層構造に手をつける権限など認められていない。そしてこのことは、実は東京シューレの「ミーティング自治」にも該当することなのではないか。もちろん「ミーティング自治」の実践記録は読んでいていつも「すごいなさすがだな」と思わされるものばかりだし、確かにそれらは「生徒会自治」なんかとは比較するのも申し訳ないくらいに教育実践として有効であると思うのだけど、それでも、組織の深層構造に関する関与・決定権をもたない「それ」を「自治」と呼ぶのは、ちょっと「言いすぎ」なんではないかいとは思う。そうまでして「子どもの自治」を言わねばならないのはなぜか。つーか、東京シューレの言説――あるいはそれがモデルとして機能している数多くの「フリースクール」の自己物語――には「自治」を可能にする制度論的・組織論的条件=「事前制御」の方法論に関する記述が非常に希薄。「事前制御」という発想がそもそも「ない」のか、それともあるけど「隠しておきたい」のか。
金子勝『2050年のわたしから 本当にリアルな日本の未来』
2050年のわたしから

2050年のわたしから

不安を煽って消費へと動機づけるタイプの言説。数値で言われてもぴんとこない諸々が、とある家族の日常のスケッチという描きかたで、非常にリアルに想像可能に。興味深い手法。途中で挿入される、選択できたかもしれないのに消えてしまった「もうひとつの希望のシナリオ」、つまりオルタナティヴな世界/社会イメージが、切ないくらいに貧相だというのが、本書の最大の欠点ではないかと。