「教育基本法「改正」とは何か」

県教組による県教研準備集会の第一部が、大内裕和氏の講演会。お題は「教育基本法「改正」とは何か」。ファシズム化する教育行政/現場の実態と、それを制度化しようとする政権サイドの動きについて。

茶色の朝

茶色の朝

茶色の朝』の世界を既に地で行く東京都。やがて日本全国が、東京都化していくだろうとの予測。疲弊する教育現場――子どもも、教職員も――ゆえの、思考停止とあきらめの蔓延。不安を煽りつつ人々をそうした疲弊状況へと固定化するものとしての「学力低下」キャンペーン。それは同時に、近代立憲主義の大前提――市民社会が国家権力を憲法で拘束――となる批判精神や人権思想そのものから、教職員/子どもの関心を逸らさせ、瑣末な「学力」獲得競争(なる偽解決)へと人々を動機づける(そうした偽解決として消費されているのが、陰山英男斎藤孝)。かくして生み出される、「低開発」された若年低賃金労働力、すなわち「フリーター」。批判精神も現状分析能力も抵抗権も去勢されている彼(女)らは、新自由主義的前提の企業社会に非常に都合のよい部品=使い捨て労働力である(従順でお上に楯突くこともないし、無茶を言ってもお行儀よく自己責任で引き受けてくれる。強引に解雇しても文句一つ言わず、礼儀正しく従ってくれる。なんて便利な人たち!)。彼(女)らを軍事的部品としても利用できればなおよしなのだが、いかんせん彼(女)らは規律とか動機に欠けるので、使い勝手が悪い。したがって、そこは「愛国心」という行為規範を内面化して、お行儀よく戦場へ赴くよう「教育」しなくては、というロジック。だからこその「教育基本法改正」。特に問題なのは、第10条(教育行政)の書き換えで、この「改正」が現実化すれば、国家・行政の教育介入の合法化/教育行政批判の非合法化という事態に。とかいう論点。さらに詳しくは『現代思想』(05年4月号)の記事「現代教育の基礎講義」を読んでね、とのこと。与党教育基本法改正に関する検討会「中間報告」というのを、はじめて知る。不勉強だったなあ、と反省。いろいろとネタを仕込むとともに、自分たちのスタンスを定めなくては、とか思う。居場所の人たちで勉強会とかやれると面白いかも。