『カナリア』/『誰も知らない』/『DISTANCE』

フォーラムにて、塩田明彦監督の『カナリア』(【参照】)。教団ニルヴァーナ(そのモデルはオウム真理教)で育てられ、その規範を内面化した岩瀬光一/12歳(石田法嗣)。教団壊滅後に保護されていた児童相談所を脱走した彼は、その途上で出遭った少女・新名由希/12歳(谷村美月)とともに、祖父に引き取られた妹・朝子を取り戻すべく、祖父の住む東京へ向かう。二人の12歳が立つのは、家族からも国家からも庇護を受けることができない場所。家族/国家による児童福祉の機能不全状況(それを端的に示すのが、本作では「出家」と「脱走」である)下での、子どもたちのサバイバルが描かれる。
そういう観点で言えば、本作のテーマは、是枝裕和監督の『誰も知らない』(【参照】)にそのまま繋がる。どちらにおいても、親の都合(『カナリア』では「出家」/『誰も知らない』では「恋愛」)からその保護をはずされ、その親の帰還=家族の回復を切望しつつ、そして親以外の大人たちに助けられながら、危機状況を生き延びていく過程が、作品のひとつの軸になっている。だが、家族(幻想)の現在形を描いたこれらの映画は、その設定における類似性とは裏腹に、その達成においては無残なまでに分岐してしまっているように、私には思えた。

誰も知らない [DVD]

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『誰も知らない』が、その過酷なサバイバル(とその果ての次女の死)を通じて、家族回復への期待や幻想を断念し、彼らのみで生き抜いていこうと決意し歩いていく子どもたちの姿を、その断念の過程を描いていくのに対して、『カナリア』の二人はあくまで、自分たちを捨てた親(大人)たちへの怨念を捨て(られ)ない。怨念の裏側にあるのは、「理想の家族/親子」への期待と幻想。だからこそ後者のラストシーンでは――それは『誰も知らない』と同じように、子どもたちがある決意のもとに歩き出すというシーンなのだが――、光一/由希/朝子が、まるで家族(つまり、父親/母親/子ども)が連れ立って歩いていくかのように描かれることになる。ここにあるのは、「家族/親子の理想形」をあらわすイコンである。そうした断念の欠如あるいは不徹底こそが、『カナリア』の限界であるように、私には思えてならないのである。
オウムを「外側から」あるいは「内側から」描くというのではなく、その「境界線上において」描くというテーマなのであれば尚のこと、前提となるような価値や基準をとりあえずは括弧に入れて、それらを距離化した上で撮る必要があるのではないか。その点で言えば、本作は、オウム映画としても失敗だったのではないかと思う。言うまでもなく、是枝監督はこちらにおいても見事な達成を示している。彼のオウム映画、『ディスタンス』は必見である。
DISTANCE(ディスタンス) [DVD]

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