『僕が批評家になったわけ』

新聞書評のためのメモ。加藤典洋『僕が批評家になったわけ』。

僕が批評家になったわけ (ことばのために)

僕が批評家になったわけ (ことばのために)

文芸批評家・加藤典洋による「著者自身にとって批評とは何であるか」をめぐる考察。著者において、批評とは「本を百冊読んでいる人間と本を一冊も読んでいない人間とが、ある問題を前にして、自分の思考の力というものだけを頼りに五分五分の勝負をできる……そういうゲーム」であるという。そしてその出発点より、著者は批評の抱える二つの困難に辿り着く。
批評が「ゲーム」であるからには「レフェリー」が不可欠である。提示されたうちのいずれの議論がより妥当であるか、その判定を行うのは、近代社会とともに成立した「公衆、世間、一般読者」である。とすれば、誰もがアクセスできるような「わかりやすさ」というものが批評には求められることになる。平明なる批評、「一階の批評」。とはいえ、誰が読んでも「わかりやすい」もの、自明なものなど、そのようなものに果たして誰があえてアクセスする気になるだろうか。こちらで求められているのは、批評に万人へのアクセスを許さない「むずかしさ」である。高い批評、「二階の批評」。さて、では私たちはこの問題をいったいどう考えていけばよいのだろうか。
実はこの問題、近代日本の批評家たち――あるいは後発近代化国家の?――が共通して直面してきた困難でもある。そこでは、市民的な公共圏(「公衆、世間、一般読者」の層)の成立に近代国家形成が先行。批評言語という価値の構築と同時進行で、その価値を評価してくれる一般公衆そのものをも構築しなければならなかったわけである。上からの革命。だが、この革命は未完だ。著者は、この革命への参画機会を万人に保障するべく、「わかりやすさ」の優先を説く。誰もが参加できるゲームのルールを確立するために、そしてそのゲームを通じて、未完の革命の推進者たるべき「個」を析出するために。そうした「個」から構成される「公衆、世間、一般読者」の層を生成させるために。
なるほど、理屈としてはわからないでもない。一部の専門家に「ことば」=「批評」を独占され、意味づけることの自由を奪われ続けてきた後発近代化国家の「普通の人々」。自らの手のうちに、奪われた「ことば」=「批評」を、そして何より「思考すること」そのものを取り戻そう、というわけだ。メールやブログが「何かについて書く」ことの敷居を凄まじい勢いで下げつつある「批評の現在」の、これは一種のマニフェストと読めなくもない。
だが待て。そうであればこそ、著者が半ば能天気に語る「公衆、世間、一般読者」=「一階のただの住人」の、のっぺりとした平板な一体性のようなものが鼻につく。そんなものがいったいどこにあるというのか。「一階の視点を失ってはならない」と著者は言う。だが、「一階」や「二階」などと一枚岩的に表象されるような「まとまり」が、「一般公衆」なるものの側に、あるいは「知識人」なる人々の側に果たしてあるのだろうか。「批評の現在」は、そうした「知識人/大衆」図式をとうに霧消させ、「一億総批評家社会」を到来させようとしているのではないのか。
複雑化し、ますます不透明化していく私たちの「島宇宙」社会。このことは、誰もがそれぞれに固有の現場――他の誰かには窺い知ることのできないリアリティ――を生きるフィールドワーカーであるということを意味する。つまり、誰もが自らの現場に立脚した批評家でありうるということ、あるいはそれが可能な条件が整いつつあるのだということだ。これが、「一億総批評家社会」という言葉で私が言わんとしていることの内実である。もはや「地下室」も「二階」も存在しない。あるのは、見通しの利かぬほどに増改築を繰り返したお化け屋敷のような「平屋」のみ。とすれば、「二階/一階/地下室」なる分節のあげくに「一階へ帰れ」などと言っても、それは既に現状認識の段階で致命的にアナクロニックだ。事態はそのはるか先を行く。
ゲームの参加者たちが、ゲームと同時進行でルールづくりを行っているような世界、しかもあちこちで増殖するルール群が平気で互いに矛盾するような世界、それが「批評の現在」ではないか。この著者の批評だって――著者自身が語るほどには――決して「わかりやすい」ものではないと思う。何より、そういう「めちゃくちゃ」で「わけのわからない」ものだからこそ、私は「批評」への、そしてまた「思考すること」への動機づけを補充できているのだと思うのである。一つになんかならなくていい。みんなに理解してもらえなくたって全然構わない。そうした「孤独」の構えこそが、私には、批評の最重要の条件ではないかと思えてならないのだ。