サボる自由、怠ける権利。


かつて、高校で講師をしていた。若い男性教員の多くがそうであるように、私もまた、「力仕事」の集中する生徒指導部に配属され、生徒の人たちの外面的/内面的な規律監督にあたらされた。例えばそれは、朝には昇降口付近に立っての「遅刻指導」であったし、校内各所で授業が営まれている日中にはサボっている人たちを発見し強制的に授業へ連れ戻すべく校内を歩き回る「巡回指導」がそうであった。

言うまでもなく、学校という規律空間の内部にあっては、「サボり」や「怠け」は「あってはならないこと」とされ、そうした振る舞いに及ぶ個人は、「教育」の対象として捕捉され、「指導」を与えられる。「サボり」とは、みんながいっせいに何かに取り組んでいるときに、そのやりかたやペースに同調しないことを意味する。つまり、そこで禁じられているのは、仕事や学びのありかたやペースを自分で決定すること――速度の自己決定なのだ。もちろん、学校にそうしたありかたを要請しているのは、労働者が勤勉であればあるほどそこから潤沢なる収奪が可能となる企業社会である。生産性と効率性のユートピアでは、「非効率」は犯罪の別名なのだ。

「サボり」そして「怠け」という「悪徳」。だが、改めて考えてみてほしい。私たちは人間である。誰かの思惑で管理される取替可能な部品でもなければ、命令どおりに都合よく動く人型機械でもない。「働くこと」や「学ぶこと」のありかたやそのペースを、なぜに私たちは、こうも一律に強制されなくてはならないのだろうか。そもそも、私たちは本当に「サボって/怠けてはいけない」のだろうか。

意外に知られていないことだが、「サボる」とは、もとは「サボタージュsabotage」を語源とする言葉。労働者たちが雇い主に対して労働組合を結成し、団体で譲歩を迫ることでプレッシャーをかける方法のひとつが、「サボタージュ(怠業)」だ。具体的には、仕事の能率をみんなでわざと落とし、勤め先企業の生産効率を意図的に下げることを意味している。こう書くと単なる「いやがらせ」みたいだが、「サボタージュ」という争議行為は、憲法でも認められた「労働者の権利」である。放置すれば不利になってしまう資本制下の弱者の生存保障のために設定され、どの国民にも分け隔てなく保障されねばならない「基本的人権」である。

そうしたコンテクストを想起するなら、「サボってはダメ」的な言説の問題性が明らかになるだろう。その語源に端的に示されているように、「サボり」は、もとは弱者(労働者)が強者(雇い主)と対等に渡り合えるようにするために保障された権利であり、しくみであった。それが、いつのまにかそうした政治的・経済的含意を脱色されて――いわば「脱政治化」されて――、個人に帰属する「悪徳」として専ら観念されるようになったわけだ。だが、「サボり」は本来、生存保障のための権利である。ということは「サボってはダメ」とは、「お前には人権を適用しないよ」という人権否定を意味することになる。そう考えるなら、学校は率先して人権侵害を積極的に担ってきた(そして今も担い続けている)ことになる。

残念ながら、これが私たちを取り巻く現実だ。もしあなたが、各人の存在が尊重される社会を構想し実現していきたいのであれば、「人権」の内部に「サボる権利」や「怠ける権利」を改めて登録する必要がある。あなたが教師なら「サボる自由」を生徒である人たちに保障しなければならない。こういうことが「極論」と観念されない社会が早く来るといい。心からそう思う。*1

*1:『ごった煮冊子 ほんきこ。』No.21(2005年6・7月号)