「指導」の前提はどこにあるか。

いよいよ新年度が本格的にスタートしつつある。新規の担当生徒も少しずつ増え、これからの全般的な仕事の体勢づくりを意識しながら動く日々である。「今後の仕事の体勢づくり」とは、簡単に言えば「今年度の指導のグランドデザイン」のようなものだ。

とはいえ、突然「グランドデザイン」なんて言われても、ピンとこないかもしれない。学校教員であれば尚更そうだろう。だが、私の見るところ、家庭教師に固有のメリットとは、まさにこの「グランドデザイン」の有効な設定と活用にある。これはどういうことか。

学校教育の前提は「カリキュラム」という形でのプログラムの提供である。換言するなら、学校側が学びのペースや速度の決定権を握っているわけで、年間予定も「1年間でこれだけの量の情報を流す」という供給サイドの論理で決定される。個々の生徒の「目標達成」は、そこではあくまで副次的だ。

だが、家庭教師の業務にあってはこの辺りの事情がまるで違う。家庭教師のサービスは、契約という形で明確化された、その生徒固有の「目標」達成である。それは、定期テストの成績UPであったり、受験での志望校合格であったり、あるいは卒業であったり、登校そのものであったりさえする。

つまりは、生徒さん(とその家族)それぞれに固有の「目標」があるわけで、私たちの仕事もその「目標」にそった優先順位のもとで、具体的なサービス内容が決定されるわけである。文字通りの学習指導が優先される場合もあれば、話し相手としての機能充足が優先される場合もある。対処方法も多様なのだ。

従って、新たに生徒を担当した場合、私たちはまず、彼(女)固有の「目標」が何か、生徒本人とその家族と家庭教師(と所属派遣会社)との間での合意構築を試みる。これを曖昧なままにしておくと、それぞれの意図の食い違いに気づけず、非効率的な事態をも招きかねない。火種はこの段階で潰すのである。

何が「目標」かの合意が関係者間で調達できた段階で、初めて「指導」という営みを開始できる。とりわけ、「指導」対象である生徒本人に、これが、彼(女)自身の能動を前提とした「共同プロジェクト」なのだということをきちんと理解してもらう必要がある。動機の確認(という形での調達)である。

学校や予備校、塾のような「カリキュラム先行型」教育の指導方法と、家庭教師のそれが決定的に異なるのはまさにこの点だろう。後者は、あくまで生徒(とその家族)側のニーズがまずあって、その充足を目的に、そのつど最適な形でサービス内容や方法を組織化する(という形式を採用する)。

他方の「カリキュラム先行型」はどうか。こちらは、予め生徒側の「学ぶ意欲」を「既に存在するもの」と前提して、それに見合う「知識の提供」を効率的に行うべく、規則正しく「一斉授業」を行う。だが、実はここにこそ陥穽がある。塾や予備校でさえ、生徒の「学ぶ意欲」など何ら自明ではないからだ。

つまりはこうだ。「カリキュラム先行型」教育にあっては、「指導」の前提として、無意識に「生徒の自発的な学習意欲」を想定しているため、それが欠けた生徒たちを激しく疎外していることになる。家庭教師の有効性は、まずはそこに照準することの可能な仕組みが形式的に保障されていることにある。

ここで、教育社会学者・苅谷剛彦のいう「意欲格差社会」を想起するなら、まずはじめに、「指導」の前提として、生徒の「意欲」「動機」の水準に照準する家庭教師の方法論は注目に値するものだということがわかるだろう。だが、それにまったく問題がないわけではない。

家庭教師派遣会社がどんなに「地域教育への貢献」を訴えたところで、それが営利企業である限り、最終的には、そのサービスを購入できるだけの経済力(への動機づけ)をもたない家族とその子どもにはアクセスしえない。教育への権利をもっとも保障されるべきは、むしろその層の家族なのに、である。

カネのある階層の家族とその子弟に対してのみ、特権的に配慮されたようなサービスのどこが「地域教育への貢献」か。カネのない階層の家族とその子弟に対して、それを保障してこそ、そういった公共性を体現してこその「地域教育」ではないかと私は思う。

まあ、それでもないよりはずいぶんマシなのだ。完璧は望むまい。当面は、「指導」そのものの前提となるような水準をも含みこんだ「指導」とはいかなるものかという課題に関するケース・スタディとして、この仕事を続けていこうと思う。あとは、その可能性をどうやって公共性へと繋げていけるかだ。