わたしが「独立」しない幾つかの理由。


家庭教師として働くようになり四年半がたつ。家庭教師といっても、フリーでやっているのではなく、講師派遣会社の登録スタッフとして働いている。上司もちゃんといるし、月に一度は業務報告をしなければならない。当然ながら、生徒さんの成績UPはノルマである。「成績が向上しない」と保護者からクレイムがあれば担当を外されることもあるし、そんなことが重なれば仕事なんてすぐに回ってこなくなる。競争社会である。

家庭教師といえば、学生アルバイトの代表格みたいに観念されがちなので、競争などとは無縁な仕事かと思われるかもしれない。だが、ゆとり教育週休二日制のもと、「学力低下」の恐怖に煽られるかたちで、家庭教師への需要は伸びている。もちろんそれは予備校でも塾でも同じだろうが、「外出するのは面倒くさい。どうせなら自室まで来てくれる家庭教師がいいや」という子どもたちの意識が、家庭教師へのニーズを過剰に発生させている。

こんなことを言うと、上司やノルマに追われることのない、フリーの家庭教師としてやっていくほうがいいんじゃないの、なんて思われるかもしれない。だが私は、上司やノルマに追われるにもかかわらず、ではなく、まさにそうであるがゆえに、派遣会社の所属講師として仕事を続けている。あえて、フリーであることを選択していない。なぜか。営業業務を自力で全てやっていくだけの気力がない? 確かにそれもある。だが、それは瑣末な問題だ。

「指導」「教育」という教師の営みは、端的に言うなら、対象である生徒への「知という権力」の行使を必然的に伴う。言い方を変えれば、教育という営みは、その関係性のうちに必ず「知」を媒介とした権力関係を発生させる。とすれば、私たち教師は、その事実に徹底的に自覚的である必要がある。家庭教師も然り。1対1であるがゆえに、密室的な関係性が構築されがちな家庭教師のサービスにあっては、このことにはとりわけ留意する必要がある。

先に述べた上司への業務報告やノルマの存在には、そうした意味で、生徒さんに対する過度の「権力」行使に歯止めをかけるという効果が期待できる。これが、無所属(フリー)の講師であれば、彼(女)の「指導=権力」に歯止めをかけるものは何もない。彼(女)が情熱に燃えた「善意」の人であると、生徒さんは悲惨である。大事なのは、家庭教師側と生徒さん側の適度な距離だ。私は派遣会社システムを、距離の安定的確保のための方法として利用している。

もちろん、その上司(あるいは会社)が、生徒さん(あるいはその家庭への)過剰な介入を「指示」してくることも当然考えられるわけで、そういう中間集団の人権侵害(とそれへの加担要求)を恒常的にチェック&バランスできるようなしくみは必要である。とはいっても、その制度的な実現はまずありえないので、個人的なレヴェルでチェック&バランスが働くような(誰かにきちんとツッコミを入れてもらえるような)環境づくりをとりあえずやっている。それが、わたしの蛸足ライフなのである。