「わかりやすさ」のコスト


前回は、「わかりやすさ」というものが、語り手と聞き手の間で成立するための条件について述べた。要約するとそれは、語り手の側での「特定の聞き手を想定した語りかた」ということであった。多様な文脈、多彩な個性を含む「みんな」に同じように何かを伝達する(=わかってもらう)ことなど、端的に不可能。だからこそ、特定の文脈、特定の聞き手への照準(とそのことの自己認識)が求められる。だがこれは、「わかりやすさ」が成立するための条件のひとつ――語り手の側の条件――にすぎず、もうひとつの、つまり聞き手の側の条件もまたそこには存在する。今回は、後者について記述したい。

「日本語は私たちの母国語であり日常語なのだから、それで書かれたものは、同じ日本人であれば誰にでも理解できるはず」。私たちの書き言葉をめぐるコミュニケーションには、そんな無意識の想定がつきまとう。
だが待て。「日本人」というカテゴリーが私たちの多様性や複数性を捨象してしまうのと同様に、「日本語」というカテゴリーもまた、私たちの語彙や概念の多様さや複雑さを見えにくくしている。私たちが用いている語彙や概念は、地域的、または階層的な偏りをもって分布しているものであるし、地域的/階層的文脈が異なれば、同じ語彙であっても異なった意味やニュアンスを帯びるものである。要は、同じ「日本人」、同じ「日本語」であっても、その中身は多様であり、そうであるがゆえに理解は容易ではないということ、「日本語であれば誰にでも理解可能」など、幻想なのだということだ。
そうした「誰にでもわかるはず」という想定があればこそ、私たちはつい「わからないこと」や「わかりにくいこと」に接したときに、理解不可能なのは、「わかりにくい日本語」を弄する語り手のせいだ、もっと「わかりやすく!」と思いがちになる。だがそうではない。語り手と聞き手の置かれた社会的な立ち位置が、地理的/階層的に異なれば、理解が困難になるのはむしろ当たり前だ。
とはいえ、誤解しないで欲しい。私は、そうした「理解不可能性」のみを強調したいわけでは決してない。それは議論の前提にすぎない。大切なのは、そうした「日本語」の多様性や階層性に直面したときに、それを一方的に「わかりにくい」=「自分とは無関係」と切り離して、「わからない」ことの責を語り手のみに負わせるのではなく、その「他者」としての語彙や文脈を、可能な限り読解すべく、労を惜しまないことなのではないか。「わからない」語彙や概念があれば、類書を手に取り、自分で調べよ。「そんな時間はない」というあなた、それは単なる言い訳だ。手間ひまをかけずに何かが手に入るという、あなたのその前提こそが私には理解不能である。つまりはこういうことだ――「わかる」ためには、聞き手の側にも、相応のコストが必要なのである。
「わかりにくい」とは、思考のコストを負い、それ相応の読解や理解を試みたうえで初めて吐ける言葉であると、私は思う。少なくとも一定の編集を経た(=反省的に書かれた)書き言葉やテクストにおいては、その編成の段階で、語り手や編集者による思考のコストが投下されているわけで、そうしたコストの痕跡を、読み手の側だけが何のコストも払わずに享受できるなどとは、思ってほしくはない。それは、書き手への冒涜だ。表現とは、書き手の、流動性への抵抗の痕跡だと、私は思う。あらゆるものが取替可能になっていくこの世界の中で、取替不可能な抵抗の言語であるからこそ、表現は尊いのだ。とすれば必要なのは、その固有性を、相応のコストをかけて理解しようと試みること――「わからなさ」に耐えるということ。自らが取替不可能な存在であるために、それは絶対に欠かせない要件だと、私は思うのだ。*1

*1:『月刊・ほんきこ。』NO.17(2005年1月号)