「カウンセリング」という思考停止。


繰り返しになって恐縮だが、私は「カウンセリング」というものが嫌いである。もちろん、居場所づくりの活動において「カウンセリング的な技法」を用いる場面がなくはないわけで、それらを全否定する気などまるでない。だが、それでもそれ――相手のはなしをちゃんと聴くこと――ただそれだけのことを「カウンセリング」と呼びかえて権威ぶるとか、あるいはその権威を商売道具にするとか、そういう振る舞い(やそれを歓迎する社会)には違和感を禁じえない。

この違和感は、同じ私たちの社会で近年急速に進んでいる保守化(バックラッシュ)の動きを補助線に考えてみると、その輪郭が明確になる。「父/親/男はしっかりしろ」とか「女/子どもはわがまま言うな」とか「年長者/目上の者を敬え」とか、一見もっともらしいがよく考えると極めて差別的な語彙で以って、性別役割分業や長幼の序を再構築しようという動き――ネオリベラリズム!――がそれだ。そこでは、極めてベタに「旧き良き価値」が称揚される。

では、それは誰によって担われているのか。小熊英二/上野陽子『〈癒し〉のナショナリズム』によれば、その担い手とは、曖昧な不安を抱えた草の根の市民、つまり私たち自身である。先行きの見えぬ寄る辺なさ、茫漠とした不安を忘却するべく、束の間の〈祭り〉や〈癒し〉を求める無防備な主体。当然ながら、〈祭り〉や〈癒し〉に思考は不要。とりあえず現実を忘却してしまえるだけの「型」があればよい――その「型」こそ、性別分業であり長幼序列なのである。

その「型」でなければならない根拠は何か、その「型」により被害をこうむるのは誰か、その「型」は誰により与えられたものか――そうした問いは、〈祭り〉や〈癒し〉を求める場の空気にはそぐわない。「空気を読め!(=疑うな!)」というわけだ。かくして、違和感や疑問を表明する言葉は封じられ、所与の「型」の枠内での「感動」や「感謝」を表明する言葉だけが許されることになる。社会へ向かうべき言葉すら、全て自己の内部に折り畳まれてしまうのだ。

もはや自明であろう。曖昧な不安を癒やすべく「型」に帰依する無防備な主体の群れ、それが私たちの現在形だ。そしてそんな私たちに与えられた「型」のひとつが「カウンセリング」なのである。「(社会ではなく)自己の内面を見つめよ」、「問題/責任は全てあなたのこころの中にある(問題/責任は社会にはない)」とそれは言う。忘却と免罪の装置。言葉を喪失させ、思考を壊死させるこの装置の危険を、もはや戦時下の私たちはもっとよく知る必要がある。*1

“癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究

“癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究

*1:『ぷらっとほーむ通信』021号(2005年1月)